旗本は、「天下の直参」といわれ高い身分と格式を与えられていました。しかし、生活は楽ではありませんでした。その傾向は、江戸幕府が成立したころからみられ、時代が進むにつれて一層激しいものになっていました。幕府は、財政を立て直すための改革を行いましたが、旗本の窮乏を救うことはできませんでした。
昭島の領主であった旗本もその例外ではなく、借金をして生活を維持していました。
中神村の領主坪内氏の一八五七(安政四)年における収入と支出を見ると、収入が約四百三十六両でした。ところが、支出は約七百四十六両で大幅な赤字になっていました。しかも、支出の半分以上が借金の支払いに充(あ)てられていました。文久年間には、借金を立(た)て替(か)えた中野家への借財が二千二百両にもなり、坪内氏は、中野家に完全に依存する形になりました。
このような状況にある旗本たちにも物価の上昇は直接生活に影響し、それが、年貢に跳(は)ね返ることになり、農民にとっては二重、三重の苦しみとなりました。
武士の生活の苦しさは、旗本に限らず大名から下級武士にまで至り、世の中の不安は一層拡大してきました。
全国の各地で一揆や打ちこわしが起こり、武士たちのなかにも新しい政治を求める人々が多数出てくるようになってきました。