天然理心流

128 ~ 129
 村の秩序を保つための自衛の動きは、文化・文政(ぶんか・ぶんせい)のころから始まっていました。
 商品の流通とともに、人の動きも活発になり、中には村の秩序に従わず、ばくちを打ったり、暴力を振(ふ)るうような者も村に入ってきました。特に、幕府領と旗本領の入り組んでいる地域では、そのような者が巧妙に役人の手を逃れて村に入り込んできました。
 役人が頼りにならない地域では、自分たちで腕を鍛え、武術を習い、無法の者たちから自分を守ろうとしました。
 多摩の地域に普及していた武術は、剣術を中心に柔術・棒術をあわせた「天然理心流」でした。この流派は、はじめは千人同心の郷士身分の人たちが修得した武芸でした。それが、天保のころより、一般の豪農の間に広まりました。昭島の地域でも、多摩の各地の豪農の庭先で行われた出稽古や道場に通ってこの武術を学んだ人がいました。
 八王子の戸吹村の道場には、二十年ほどの間に、拝島村から十名、大神村から四名が入門しました。また、日野宿の佐藤家の道場には、慶応三年だけでも、中神村から八名が入門しました。
 この入門者は、いずれも村役人や豪農層の跡取り息子たちでした。村の秩序が乱れ、全国の各地で一揆がたびたび起こっている不安な時代でした。役人が頼りにならず、自分の家や財産を自ら守る必要性から、武術を身につけたと思われます。
 一方、はじめは、農民が武芸を習うことを禁止していた代官所の役人も、治安を維持する必要から、これを認めるようになり、さらに、これらの武術を身につけた農民を集めて農兵を組織しました。農兵は、普段は農業などに従事していて、いざというときに、代官所の命令に従って行動しました。
 天然理心流は、新撰組の近藤勇や土方歳三たちが身につけた流派でした。近藤も土方もそれぞれ調布や日野にある村の豪農の子どもでした。土方は、日野宿の佐藤道場の出身で、中神村の人々は同門になります。
 近藤や土方は上京して新撰組の中心になり、幕府と対立する尊皇派の武士たちと戦い、その後は、朝廷方の官軍と戦いました。
 天然理心流を学んだ人からは、新撰組に加わった人が多くいましたが、昭島からは、そのような人物はいませんでした。

本覚院「天然理心流心武館」奉額(大正2年)