武州世直し一揆が

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 一八六六(慶応二)年、武州秩父郡上名栗村(埼玉県)で一揆が起こりました。その発生原因は、物価、特に米の値段の急な値上がりでした。開港にによる金の海外流出と幕府の度重なる貨幣の改悪により、貨幣の価値が下がりました。また、物価の上昇を見込んだ商人が米を買(か)い占(し)めたことにより、さらに物価が上がりました。
 田が少なく米や雑穀を買い求めて生活をしていた地域の人々は、このために大きな打撃を受けました。
 上名栗村は山あいにあり、田や畑が少なく、養蚕が中心の産業であり、米や雑穀を他地域から買って生活をしていました。従って、物価の急な上昇により、食料が手に入らなくなってしまいました。そのため、食料を求めて、それを蓄えもっている商人や大地主の家を襲いました。
 関東の村では、どこも同じような、人々がたくさんいたため、この一揆は他の地域の人々も巻き込み、北は埼玉本庄、南は東京の多摩地区、西は秩父、東は与野までの町や村の富豪を次々に襲う大一揆になりました。
 六月十三日に発生し、十九日に鎮圧されるまで続いた大規模なものでした。
 慶応二年六月といえば、幕府が第二次長州征伐を決意し、軍事行動を起こした時期にあたります。ところが、五月十三日には、将軍が城にいた大坂で打ちこわし騒動が起こり、同じ月の二十八、二十九日には、江戸でも打ちこわし騒動が起こっています。そして、六月には上州、武州二か国にまたがる一揆が起こったのです。
 それは幕府の最重要政治都市である江戸・大坂と軍事的財政的基盤である関東において、一時的にせよ、幕府の機能をまひさせたことになります。このような状態のなかで、幕府が長州藩を征伐することなどできるはずがありません。三つの騒動は幕府滅亡の前ぶれであったかもしれません。