昭島の村では

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 名栗村で一揆が起こり、飯能、扇町屋(埼玉県入間市)・所沢などで打ちこわしがあったという情報は、昭島にもすぐに伝わってきたと思われます。特に、仲買を中心にした商業活動でこれらの地域とも交わりのあった上層の農民たちは、その動向が気になり、情報を集めることも行ったと思われます。
 また、幕府の役人たちも、この一揆に対抗する手だてをすぐに行いました。
 六月十五日、多摩の地域を支配していた代官江川氏は、拝島の名主・組頭に対して「至急農兵を集めること、一揆を見つけ次第打ち殺すなり、斬(き)り殺すなりすべきである」と命じ、一揆に対抗しようとしました。
 しかし、拝島・立川の農兵が集まる前に、青梅、箱根ヶ崎を襲った一揆はこの地域にやってきました。
 一揆は、新しい村に入るたびに、人足や新しい部隊を徴発し、一揆に加わらないものは、打ちこわしや放火をするといって参加を強制しその数は雪だるまのように大きくなっていきました。
 昭島の村々もこの一揆への参加を強制されました。中神村、宮沢村で行われた参加の強制は、人足を出すことを申しつけ、従わない場合は、名主をはじめ村内を残らず打ちこわすというものでした。
 このような参加の強制により、仕方なく一揆に参加した人々が多かったと思われますが、生活苦やそのもととなった政治に矛盾を感じ、一揆の考えに同調して自ら参加した人もかなりいたと思われます。

打ちこわし(想像図)