昭島の地域が、拝島や立川の農兵が集結する前に一揆の襲撃にあったのに比べ、八王子や日野の農兵◇は集結が終わり、一揆の到来を待ち構えていました。代官所の役人が指揮を執(と)り、日野を中心に駒木野・八王子の農兵八十名が約五十丁の鉄砲を持って、一揆が多摩川を渡るのを待っていました。
一揆は、築地の渡しから日野宿への侵入を図ろうとし、築地川原へと押し寄せました。その数は資料によって、数千から二万と定かではありませんが、八十名の農兵に比べれば圧倒的な数でした。
武州一揆と農兵が戦った築地川原
中神・宮沢・築地の各村の村役人や千人同心が、一揆の説得に当たりましたが、数に勝る一揆勢は耳を貸さず、一気に多摩川を渡ろうとしました。
多摩川を渡り始めたとき、対岸の日野側の土手で待ち受けていた農兵の鉄砲が一斉に一揆勢に向かって火を噴(ふ)き、一揆は総崩れになってしまいました。数が多いとはいえ、鉄砲と鉈・木刀・鳶嘴では戦闘になりませんでした。
一揆は、満足に戦うこともできず、上川原・砂川・福生方面へと逃(に)げのびて行きました。
この戦闘で、一揆は二十一名の死者と四十一名の逮捕者を出しました。拝島村から四名の村人が逮捕されてしまいました。
昭島を襲った一揆はこのような形で鎮圧されてしまいましたが、柳窪村(東久留米市)や五日市(あきる野市)に向かった一揆も同じように農兵により鎮圧され、埼玉では、幕府軍や藩兵により敗れてしまいました。
この一揆は、後に「武州世直し一揆」とよばれました。
一揆は鎮圧されてしまいましたが、その後の村には多少の変化がみられました。
一揆が起きた原因が解決したわけでなく、このような一揆の可能性は残されたままでした。打ちこわしの対象となるような、村役人や豪農たちは、それを防ぐための手だてを考えました。組合村として、「貧民を救うために、村役人と有徳の者が、村ごとに相応の施行」「商品の値段は、その時の相場に従うこと」「質物の利息を定めること」などの取り決めをしました。
このことから、一揆が敗れたとはいえ、貧しい農民層の生活に、多少の変化がみられました。
◇農兵
一揆の鎮圧に力を発揮した農兵は、その名が示す通り農民による兵士だった。
厳しい身分制度をつくり、武士と百姓を明確に分けた幕府は、百姓が農業に専念し、武器を持つことを厳しく取(と)り締(し)まった。
しかし、武士の力が衰え、一揆を押さえたり、治安を維持する力がなくなると、幕府は、村役人の層から農兵を出させ、役人の手助けをさせようと考えた。
また、治安の悪化を恐れた村役人たちも、村に流入してくる無頼の徒に対抗するため、農兵を出すことを進んで受け入れた。
農兵は、日常は農業などに就(つ)き、事件が起きたときには、兵士として、役人の命令に従った。