昭島の夜明け前

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 幕末の社会の激しい変化に、商品作物を取り引きする人々は敏感でした。江戸の中期ごろの、天災、飢饉、騒動など村人の生活や商品価格の変動にかかわる記述が残されています。それらの記述の中には、幕府から流されてきた情報や、私的に得た情報の記録もありました。
 昭島市内に残るそのような記録を拾い集めると、断片的な記述とはいえ、ペリーの来航から、安政の大獄、尊皇攘夷の動き、下関戦争、鳥羽・伏見(とば・ふしみ)の戦いの幕府の敗北など幕末の世の中の動きが昭島の村にも伝わっていたことがわかります。
 しかし、将軍が大政を奉還し、幕府が滅んだことを知った幕府領や旗本領の昭島の人々はどのような思いでそれを迎えたのかなど、人々の考えや自分の感想などは記されていません。
 開国以来の政治の乱れ、経済の乱れの影響をもろに受けた村の人々は、それらの状況に対応する幕府の新しい対策を求めてはいました。しかし、幕府領や旗本領であったため、幕府に変わる政府の出現を期待するより、同じ天然理心流を学び、近藤や土方たちを送り出した地域の農民たちは、幕府に対抗する官軍から幕府を守ろうと考える人が多かったようです。
 近藤や土方が甲州で官軍に敗れ、甲州街道を江戸に向かって進軍する官軍の様子を眺めた人々は、新しい政治を期待するより、これからどのような世の中になるのかという不安の方が大きかったと思われます。

京都を出発する官軍 聖徳絵画記念館所蔵
高鳥稚作成

 明治元(一八六八)年二月十五日、京都を出発した官軍は、東海道・東山道・北陸道の三つの方向から江戸に向かった。図で兵士のもっているのが錦の御旗である。