戸籍ができる

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 新しい支配の体制ができたものの、明治政府は成立以来、財政難に苦しんでいました。
 江戸幕府の破綻した財政を引き継ぎ、年貢の制度をそのまま続けたため、国家としての収入が不安定でした。天候による影響で取れ高が左右される年貢による収入は安定せず、また、各地でその徴収率が異なるための弊害に悩んでいました。
 しかも、国の近代化のための支出は増加する一方でした。近代工場の建設、機械の購入、技術の導入、船舶や武器の輸入など、西洋の文明を取り入れることが急務でした。
 こうしたことから、財政を安定させるための税制の改革は政府の重要課題の一つでした。
 税の徴収には、まずきちんとした戸籍の整備を必要としました。
 そこで、明治政府は、明治四(一八七一)年、戸籍制度の確立をはかりました。これにより、四~五町、または、七~八村を一区画とする戸籍区ができ、戸長・副戸長が区内の戸数・人員・生死・出入などの戸籍を管理するようになりました。
 翌年には、村役人の制度が廃止され、戸長が戸籍と一般の行政事務を担当するようになりました。
 神奈川県では、名主・年寄などの名称をそのまま戸長・副戸長と改称したため、各村ごとに戸長・副戸長が置かれましたが、後に村用掛になりました。これが明治十二年の改正で再び戸長になりました。