東京府に編入される

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 江戸に住む人々の飲み水は、江戸が東京になっても玉川上水が頼りでした。しかし、東京府は、玉川上水の沿岸が神奈川県や入間県に属しているために、その管理のしにくさに悩んでいました。江戸幕府がその流域をすべて管理し、飲料水としての安全を確保するために、厳しく取(と)り締(し)まってきたのと比べ、東京府、神奈川県、入間県と三つにまたがって流れる上水の管理は難しいことでした。
 そこで、東京府は、玉川上水の沿岸を東京府に移管することを政府に要請しましたが、許可されませんでした。
 明治十九年には、コレラが大流行し、玉川上水の水質保全のために、西多摩、北多摩の東京府移管を求めました。しかし、これも不許可になりました。
 明治二十四年、多摩川の涵養民林の伐採が神奈川県で許可され、これに危機を感じた東京府は、再度水源の涵養保護、衛生上の取り締まりの必要性から、西多摩・北多摩の東京府編入を強く主張しました。南多摩も西多摩・北多摩など地域との結びつきの強さから同様に東京府への移管を主張し、三多摩全域の東京府移管を求めました。
 この移管には、神奈川県も賛同しましたが、思いがけない反対がありました。それは、南多摩に大きな勢力を持つ自由党でした。特に、八王子や町田をはじめとする南多摩の地域では、自由党の民権家やその支持者が多くいました。南多摩が東京府に移管するということは、神奈川県の自由党にとっては、大変な損失でした。自由党は東京府移管を必死にくいとめようとしました。国会では、反対する自由党と賛成する立憲改進党との間に激しい対立を生みました。そのような経過を経て、明治二十六(一八九三)年、ようやく三多摩の東京移管が議会で可決されました。