東京の中心部は近代的な都市に生まれ変わっていきました。また、政府主導による近代産業の育成を行い、紡績などの軽工業は機械化され近代産業へと脱皮していきました。
このような世の中の急激な変化に比べ、昭島の村々では農業が産業の中心であり、生活の変化はゆっくりとしたものでした。
明治初期の農産物をみても、江戸のころと比べて大きな変化がなく、畑作中心の農業が行われていました。
麦・粟・そば・稗などの穀類が中心で、農家の現金収入の多くは、生糸や繭、織物でした。
特に、生糸の生産は、開国以来、生糸が輸出の七~八割を占(し)め、明治政府も生糸生産を奨励したため養蚕業が盛んになってきました。明治十(一八七八)年、田中村の「物産書上」では、全農産物生産額の五十三パーセントを養蚕業が占めていました。生糸市場の好景気により、昭島の村にも次第に近代化の影響が現れてきました。
蒸気動力を使用する最新式の生糸工場が明治十三(一八八〇)年、拝島村に島田成徳によりつくられました。
この工場は、男性五人、女性四十三人を職工として雇い、三年後には、工場を増築するという発展をしました。
養蚕業が発展するに連れて、昭島の村にも変化が現れ、農業以外を生業とする人々も出てきました。
明治十二(一九七九)年の大神村では、商業戸数二十、染物・木綿織物・大工などを職業とする戸数十八と、全戸数の三分の一が農業以外の職業に従事するようになりました。農民の間でも新しい職業に切り替える人も多くなりました。江戸のころより商業が盛んであった拝島村では、いっそうその傾向が強く、全戸数二百二十七のうち、商業が九十戸、工業五十二戸であり、農業との兼業もあったと思われますが、農業専業の戸数をしのいでいました。
このころの村人の食事の米・麦・粟の割合をみると表のようになります。
拝島村明治前期の常食調査表(「公用雑録」市役所文書)
常食物調査表 | ||
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現今 | 十年前 | 二十年前 |
(明治十三年) | (明治三年) | (万延元年) |
村中 | ||
四分通米 | 三分通米 | 二分通米 |
五分通麦 | 五分五厘通麦 | 六分通麦 |
一分通粟 | 一分五厘粟 | 一分五厘粟 |
五厘通稗 |
米の割合が十年ごとに上昇し、生活が豊かになってきていることを示していますが、それでも米は四十パーセントでした。