早くも、明治六(一八七四)年には、上川原村の指田忠左右衛門が品川の商人に、豚二十二頭を送っていました。日本では、仏教思想の影響により、豚肉や牛肉を食する人は多くいませんでした。ところが、明治になってからわずかの時期に、牛肉だけでなく、豚肉も食べるようになっていたのでした。そのような食の変化を敏感にとらえ、指田忠左右衛門は養豚を行っていたのでした。養豚は、明治二、三年ごろより始めたようで、この時代の先進的な事業でした。
同じように、新しい事業として、人力車がありました。
拝島村には、明治十五(一八八二)年、三十二人の人力車夫たちがいました。一つの村にしては多い人数で、それだけ利用する人々がいたあかしです。東京で人力車が増えだしたのが明治四、五年ころで、拝島では、明治七年ごろから営業願いが出されていました。
残されている運賃表には、地名と距離、運賃が示されていて、その利用範囲を知ることができます。主に品物を取り引きする人々が、その取引先の行き来に利用していました。
地名 | 里程 | 賃銭 |
---|---|---|
箱根ヶ崎 | 二里 | 二五銭 |
青梅 | 三里半 | 五〇銭 |
府中 | 四里 | 五〇銭 |
川越 | 七里半 | 一円 |
五日市 | 三里 | 五〇銭 |
人力車(拝島町大正11年ごろ)昭島市民秘蔵写真集より