青梅にも鉄道を

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 甲武鉄道が開通し、立川まで蒸気機関車が走り、大量の人や品物を一気に短時間で輸送するということは、青梅近辺の人々に、強い刺激を与えました。
 青梅は、青梅縞、青梅材などで江戸時代より江戸と深くかかわっていた地域でした。また、青梅周辺でとれる石灰は江戸城をはじめ江戸のまちづくりに欠かせないもので、青梅街道はその石灰の輸送路でした。
 これらの物資を大量に運ぶことのできる、鉄道の建設は願ってもないものでした。また、立川から青梅の間にある、昭島、福生の事業家も青梅の人々と同様の思いでした。
 甲武鉄道が完成する半年前、明治二十一年十一月、青梅を中心とする西多摩の人々は、甲武鉄道を青梅まで延長する願いを甲武鉄道に出しました。

青梅鉄道延長依頼書(中村家文書)

 総代人は、紅林徳五郎(郷地村)、中村半左衛門(大神村)、平岡久左衛門(青梅村)、小沢太平(沢井村)、田村半十郎(福生村)、石川保助(不明)の六名でした。これらの人々は、石川氏は不明ですが、甲武鉄道に出資していた人々でした。
 依頼書を見ると、青梅を中心に四十人が署名しています。昭島からは紅林、中村の二名に加えて、上川原村指田忠左衛門、郷地村岩崎清八、福島村岩崎良右衛門、宮沢村田村金十郎、伊藤治兵衛、大神村志茂半蔵、石川国太郎などの名が見られます。自由民権運動でも名を連ねた人物が多く、進んで文明を取り入れようとした人々でした。
鉄道延長の願いには、
 
  青梅地方には物産が多く集まり、これからも発展の可能性が多く期待できる。また、日向和田村やその周辺の多数の村から、今の時代に必要な石灰が産出する。これを輸送することによる利益は大きいはずである。しかし、一つの会社を興して営業してもその利益は少ないので、甲武鉄道を立川より日向和田まで延長してほしい。
 
といった趣旨の願いが書かれていました。地元の資本だけでは、鉄道を敷設する力はなく、甲武鉄道に延長を依頼しましたが、甲武鉄道からは拒否されてしまいました。しかし、鉄道建設への協力は得られることになりました。
 そこで、三年後の明治二十四(一八九一)年、青梅鉄道設立の願いを国に提出しました。