青梅鉄道会社の設立

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 明治二十五年、会社の設立と鉄道敷設の本免許が下り、青梅鉄道会社が成立しました。創業総会により、委員長指田茂十郎(羽村)、委員小沢太平(沢井)、平岡久左衛門(青梅)、紅林徳五郎(郷地)田村半十郎(福生)、監査役石川弥八郎(熊川)、岩田作兵衛(甲武鉄道)の役員が選出され建設に着手しました。
 起業の計画では、「日向和田から、霞・調布、西多摩郡福生・熊川、北多摩郡拝島・大神・立川」となっていました。また、収入の目論見は、一日平均でと
 
  貨物 上り下り約三〇〇駄(だ)
       三四円七六銭六厘
  乗客 青梅・立川間 一六三人
    沿道乗客   一〇分の六
       二五円四四銭
 
なっています。
 青梅鉄道の路線の計画では、現在のように、立川~拝島間は直線でなく、もっと多摩川よりにカーブし、村落地帯を通そうとするものでした。しかし、各村落の猛烈な反対にあい、現在のようになったといわれています。
 当時の蒸気機関車の煙突から出る火の粉が藁葺き屋根に燃え移り火災になることを恐れたからでした。このような火災は全国では実際にあったようで、農業に従事する人々のなかには、鉄道の建設に反対する動きもあったようです。開通後、昭島でも山林が燃え、その損害を求めた記録が残されています。また、煤煙による桑の葉への被害を心配し、反対する動きもあったようです。
 昭島では、村落の北を鉄道が走ったため、当初の駅舎はすべて南向きに造られていました。

青梅鉄道1号機関車 立川・昭島の100年/郷土出版社より