学制が施行される前

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 江戸時代の文化・文政のころには、さまざまな文化活動が昭島にも多くの人々に受け入れられていました。戯作者・俳人として、指導的な役割を果たした不老軒うたたのような人物もいました。このようなことからも、昭島では、寺子屋を中心に、かなりの数の人々の間に教育が行われていたと想像できます。
 中神村福厳寺の光国和尚が、一八四八(弘化四)年、二十五歳で住職となったときの日記を残していました。その中に、福厳寺の前の住職、天厳和尚の葬儀や法要に、天厳和尚から寺子屋で学んだ筆子たちがその手伝いをし、三十一名の連名で、冥福のための石塔と石灯籠を建立したとあります。その石塔に刻まれた筆子の村をみると、中神村を中心に、周囲の村からも子どもたちが通っていたことがわかります。福厳寺と同様、他の寺でも寺子屋が開かれ、読み書きや計算を学んでいたと思われます。

寺子屋が開設されていた福厳寺


天厳和尚の墓