学校校舎の建設

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 昭島の小学校は、その創設当時はいずれも寺院をかりての出発でした。
 明治十四年、共成小学校が福島神社の境内に四十坪の校舎を造ったのが昭島の校舎建設の始まりでした。次いで、中神学校が再興された明治二十三年に、民家を改造して校舎を設けました。ところが、これらの校舎は、広さも不足し、設備も不備な点が多く、間に合わせ的なものでした。
 昭島の地域での本格的な校舎の建設は、成隣小学校が最初でした。明治二十六(一八九三)年十月、文部省の設計に従った、建坪七十五坪の校舎が完成しました。この校舎にかかった建設費は八百円で、すべて村の有志による寄付で建てられました。
 このあと、明治三十三(一九〇〇)年、拝島小学校が、百九十一坪の校舎を建設しました。費用は、三千二百四十七円、開校式の費用まで含めた総建築費は五千二百八十五円余にのぼりました。
 さらに、中神、共成の二つの小学校が合同して明治四十五(一九一二)年、玉川小学校になりますが、この玉川小学校が、翌年の大正二(一九一三)年、三百二十三坪の校舎を、九千八百円余かけてつくられました。いずれも全額村民の負担によるものでしたが、ここに、昭島市域の三つの小学校の校舎が完成しました。
 また、拝島小学校は、明治二十七年に高等科が設立され拝島尋常高等小学校になりました。他の小学校はまだ尋常科だけであったため、東部の村で高等科に進学する子どもは、立川の柴崎村の高等小学校になど通いました。大正三(一九一四)年、成隣・玉川に高等科が設置され、それぞれ尋常高等小学校になりました。