四 日清・日露(にっしん・にちろ)戦争と昭島

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 日本の近代化の大きな柱として、明治政府は富国強兵の政策を強力に押し進めました。それは、既に述べたように近代産業の発展と近代的な軍隊をつくることでした。
 明治六(一八七三)年、西洋の軍隊の制度を取り入れ、二十歳以上の男子を徴集して、訓練をし軍隊をつくるという徴兵令を施行しました。これにより国民皆兵を目指し、近代的な軍事国家をつくろうとしました。
 これに対して、農村では、働き手の男子を軍隊にとられるということで、西日本を中心に、徴兵令反対の一揆が起こるほどでした。
 この新しくつくられた軍隊は、明治十(一八七七)年、鹿児島の士族が政府に反対して起こした西南戦争の時には、既に政府軍として組織され、西郷隆盛が率いる薩摩の士族と戦いました。
 福厳寺に昭和十二(一九三七)年に建立された「表忠碑」には、この西南戦争に、昭和村地域から二名が兵士として参加したことが記されています。