日清戦争が起きる

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 明治政府は、明治九年、鎖国政策をとっていた朝鮮国に無理に開国を迫り、不平等な日朝修好条規(江華条約)を結びました。しかし、このことにより、歴史的な関係で朝鮮の宗主権を主張する清国と、朝鮮国を巡って対立するようになりました。
 こうしたおり、朝鮮で「東学党の乱(甲午農民戦争)」という農民の反乱が起こりました。日本と清国は、これに乗じて軍隊を朝鮮に派遣しました。農民の反乱は、両国の軍隊の到着する前に終わっていましたが、朝鮮に利権を求めようとする日本と宗主国であることを主張する清国は、それぞれの軍の撤兵について激しく争いました。この結果、明治二十七(一八九四)年、日本と清国はついに戦争に突入しました。
 日本軍は平壌(へいじょう・ピョンヤン)を占領し、清国軍を朝鮮国境より北へ追いやり、さらに、黄海の海戦で清国艦隊を破りました。
 さらに、旅順口を攻略し、翌年には、威海衛を占領し、清国の艦隊を降伏させました。
 日清両国は、下関で講和会議を開き、下関条約を結びました。その結果、日本は、賠償金約三億円の支払い、台湾・遼東半島の割譲、朝鮮国の独立を清国に承認させました。しかし、遼東半島は、満州に野心をもつロシアを中心にした、フランス、ドイツ三国の干渉により清国に返還させられました。その結果、日本は、満州に進出し朝鮮にも力を伸(の)ばそうとするロシアと対立するようになりました。