日露戦争

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 日清戦争の後、日本は朝鮮国から清国の力を排除し、支配を強化していきました。さらに、中国の東北部(満州)へ勢力を伸(の)ばそうとしました。
 一方、ロシアも南下政策を推(お)し進め、鉄道を建設し、軍事施設をつくるなど、満州にその勢力を進め、朝鮮にまでその力を伸ばそうとしていました。
 日清戦争の十年後、明治三十七年(一九〇四)年二月、ついに日本とロシアは国交を断絶し、日本軍が、仁川沖・旅順港のロシア艦隊を攻撃することにより戦争になりました。日本軍は、兵力・武器に勝るロシア軍を相手に各所で苦戦をしました。八月の旅順での戦いには、大砲・機関銃・地雷などを大量に備えたロシア軍に総攻撃をし、あっというまに一万六千人の戦死者を出しました。必死の日本軍は、翌年の一月には旅順、三月には奉天を占領しました。また、五月には、日本海でロシアのバルチック艦隊を全滅させ、戦いを有利に進めました。

旅順の会戦(想像図)

 しかし、日本軍の損失は大きく、国の軍事力も経済力も、戦争をこれ以上続けるのには限界に達していました。また、ロシアも、社会主義運動が盛んになり、国内の政治が不安定な状態でした。
 日本は、アメリカ合衆国の大統領ルーズベルトに日本とロシアの講和を斡旋してくれることを依頼しました。その結果、明治三十八(一九〇五)年八月、アメリカ合衆国ポーツマスで、日露講和会議が開かれました。
 講和の条件を巡って会議は難航しました。小村寿太郎が全権大使となり、交渉しましたが、負けてはいないと主張するロシアに対して、すでに国力の限界に達していた日本は、不利な講和に調印せざるをえませんでした。
 この結果、朝鮮国の支配権や満州での日本の利権、南樺太の日本の領有権をロシアに認めさせましたが、賠償金は放棄しなければならず、外国からの莫大な借金を抱えることになりました。