日露戦争と昭島

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 日露戦争は、日清戦争とは比べ物にならない大戦争でした。国の総力を集めての戦争で、戦費は、日本の国家予算の何年分をも必要としました。それは、日清戦争の七倍にもなり、国債というかたちでの欧米の国々からの借金で補われました。死傷者の数もやはりおよそ七倍に達しました。
 昭島の市域から動員された人の数も多く、福厳寺の表忠碑によると、六十六名が昭和村の地域から動員されました。また、拝島公園内にある「日露戦役紀念碑」によると、拝島村からは、三十九名が動員されていました。合計百五名が昭島の市域から動員されました。

拝島公園「日露戦役紀念碑」

 これは、明治三十六年の昭島市域の総戸数七百五十六戸の七分の一にあたり、七軒に一人が動員されたことになります。動員された人々の中で、九名の人々が戦死しました。
 このほか、戦争が与えた村への影響は、日清戦争以上に厳しいものでした。政府は、まず、戦争を行うための財源を確保するため、増税を実施しました。村の人々がその増税の負担に苦しむのをみた拝島村では、基本財産蓄積を停止し、地方課税を制限することにより、その急場をしのごうとしました。
 また、兵を出すことは、その家にとって大切な働き手を失うことであり、その家が困窮してしまうことでした。拝島村では、動員された留守家族で生活に苦しい家に、村税の免除を議決しました。しかし、政府はその議決を認めず取り消すことを命令してきました。大神村奨兵義会は、動員された軍人の留守家族に、五円を支給するようにしました。また、寄付金を募り、出兵の留守家族を援助する議決をしました。このような大神村の活動と同様のことは、他の村でも行われたようでした。
 さらに、戦場での食料のため、国が大量の麦の買い付けをしました。このため、村の麦がなくなるとともに、物価が上昇し、増税とともに人々の生活を苦しめました。