製糸工場がつくられる

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 日清戦争の後、日本の工業は軽工業部門の機械化がゆき渡り、第一次産業革命をほぼ達成しました。
 このころになると、製糸の機械化が進み、機械製糸の生産量が増大し、各地に工場ができるようになりました。
 このような産業の発展と生糸価格の高騰により、昭島の市域でも製糸工場が多くつくられました。明治二十七(一八九四)年から明治三十二年ごろの間に、西川製糸、神山製糸場、中村製糸場、同伸社、小池製糸場、博信社などが相次いで設立されました。これらの工場は、それぞれ四十~百名前後の従業員を抱えていました。
 経営の形態ははっきりしていませんが、博信社を例にみると、設立の目的は、「有志者が集まって工場をつくり、養蚕農家が生産した繰り糸を、工場で揚返しや包装などの仕上げをし、合同で販売する」となっていました。
 有志者とは、工場の建築費などに出資した社員で、明治二十七年の創業時には四十七名の社員がいましたが、実際の就業は従業員によって行われました。
 有志者が、どの程度の金額を出資したのかという記録が残っています。それによると、出資額の最高が八十七円八銭、最低は三円五十銭で、大半が十円未満の少額出資者だったようです。出資金の総額は六百三十六円五十銭でした。

中神の西川製糸 工場の内部


西川製糸の外観と荷受け風景