日露戦争の後、戦争のために払ったいろいろな犠牲は、多くの問題を引き起こしました。
民衆は重税に苦しめられ、戦後のインフレによる物価高に悩まされました。特に農村ではその傾向が強く、自作農が土地を手放し、大地主にその土地が集中する結果になりました。貧富の差もますます大きくなっていき、それは、村の財政にも大きな影響を及ぼしていきました。
政府は、このような状況を打開するために、地方改良運動を推進しました。
拝島村では、明治三十九年、村を改良するための活動を示しています。
それは、十一項目からなる、生活、教育、産業の振興などの改善の方向を示すものでした。この結果、村の近代化が一層進められることになりました。
◇拝島村の地方改良運動
「拝島村是要項実施状況(明治三十九年七月提出)」の要旨は次のようなものであった。
一 冠婚葬祭の簡素化、公私の集会時間の短縮。
二 勧業組合と産業銀行との連携。
三 貯蓄組合への貯金を勧める。
四 農業の手伝いをするために学校に行けない者への夜学校の設置。
五 養蚕及び製糸の改良。
六 米麦作の改良。
七 砂利の採掘などを計画し、村民の副業とする。
八 税金を滞納しないように注意をうながす。
九 町村基本財産の蓄積を増やす。
十 青年の知識を深めるために、講話講習を充実する。
十一耕地を整理する。