うすい粥をすする農民 昭和6(1931)年 毎日新聞社提供
恐慌により、農産物の価格が大暴落しました。
特に米の値段は、恐慌前に比べ二分の一、繭の値段は、三分の一と大幅に下落しました。
このため、養蚕で活気のあった農村では、借金や生活苦から土地を手放し、自作農も小作農も農業をやめざるを得ない状況においこめられました。
政府は、このような不況の対策として、米価対策、負債整理対策、農村経済更生計画などを打ち出しました。
これらの中で、中心になったのが農村経済更生計画でした。それは、政府が特定の村を指定し、府県知事の指導のもと、村の産業や経済の計画的な建て直しをするというものでした。拝島村は、昭和七年、この指定を受け、「拝島村経済更生委員会」を設立し、その更生に向けて歩み出しました。
拝島村は、大正期から、火災や洪水による被害、税の滞納などに苦しんでいました。それが、この恐慌により一層拍車をかけることになっていました。
拝島村では、この指定を受ける前より、地方改良運動の一環として村としての努力をしていました。
昭和六年には、東京府より、七千円の養蚕改良事業費を借り、荒廃してしまった桑畑の改植費にあて、養蚕の復興を図ろうとしていました。
また、経済更生計画の一環として、昭和十年には、農民が負っていた負債を政府の融資により整理することに着手しました。以前から納税組合を作るなどの村の努力もあり、昭和十四年には、納税の滞納整理が完了するまでになりました。
この他、失業対策として、土木事業なども何回か行われ、拝島村の急場をう事業も行われました。
しかし、このような農村更生運動は、それを通しての国の統制の強化につながり、後の戦時体制に組み込まれていくことになりました。
着物姿のこどもたち(昭和15年)
榎本良三氏所蔵