昭和十二(一九三七)年、航空機メーカーの一つである昭和飛行機が、六十万坪にも及ぶ広大な敷地を買収して、航空機の製造と修理のための工場を設立しました。
恐慌による不況の中で、軍需産業だけが成長をしていました。中国大陸への侵出によりその不況を打開しようとした軍部と政治家、大資本家が手を握り、軍備の拡張に力を入れたからでした。軍需産業は、戦争が続くなか、事業を急速に拡大していきました。
立川には既に立川飛行場があり、陸軍の航空工廠がありました。そのような関係があって、立川に隣接した昭和村に昭和飛行機工業株式会社がつくられました。昭和飛行機は、三多摩では、立川飛行機、日立航空機、中島飛行機と並ぶ、大航空機メーカーに成長していきました。
昭和飛行機(昭和13年)立川・昭島の100年/郷土出版社より
戦後、昭和飛行機の建物を利用したスポーツ施設
昭和飛行機工業株式会社ができると、その下請協力工場が次々につくられました。また、陸軍航空工廠や名古屋工廠などの関連軍需工場もつくられ、青梅線に沿った地域の様相は、桑畑から工業地域へと変わりました。
昭和飛行機(昭和25年)