人口が急激に増加し、昭島の地域は不振だった農業から、軍需工場関連の仕事に変わる人々が多くなりました。昭和十三年の昭和村の農家戸数は、四百四十六戸で、昭和十年に比べると三十パーセント近く減少していました。全戸数に占(し)める農家の割合も三十二パーセントになってしまいました。
明治・大正時代には、養蚕の村として、ほとんどの村民が何らかの形で農業にかかわり、それに依存してきたことを考えると、村そのものが変わってしまったといえます。
このような人口の増加と、軍需産業を中心にしか産業の発展により、昭和村は、昭和十六年、町制を施行し、「昭和町」にその名称を変えました。