昭和十六(一九四一)年、日本は、ハワイの真珠湾やマレー半島を攻撃し、太平洋戦争に突入しました。
戦争が何年にもわたって続く中で、召集され戦場に行った人や家族だけでなく、国民のすべてが制限された苦しい生活をするようになってきました。
日中戦争の長期化により、すでに政府は戦争の遂行をすべてのことに優先するようにしていました。
昭和十三年には、「国家総動員法」を公布し、国力のいっさいを戦争を遂行するために投入できるようにしました。この法律は、議会の議決なしに、国民生活にかかわる重要な事柄を政府が決定するものでした。
政府の統制は国民の服装から食料に至る日常生活の細部まで、社会の隅々にまでゆきわたりました。
政府は、町内会、部落会を組織し、さらにその下に隣組を編成しました。そして、この組織を通して、さまざまな義務や命令を出すとともに、お互いの生活を監視するようにさせました。
町内会や隣組は、食料や日用品の配給、貴金属や鉄の供出、国債を買うことや貯金の割り当て、勤労奉仕や防空訓練の実施などの中心にさせられ、それを構成員に実行させました。
昭島でも、昭和町では、三十二の町内会が組織され、町内会ごとに五~十の隣保会(隣組)がありました。