太平洋戦争時の昭島

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 太平洋戦争への突入は、国民に一層の不安をもたらしました。莫大な戦費やインフレの防止のために、預金や国債の消化を半強制的にさせられました。その結果、政府に集められた資金は、戦争を行うための戦費として使用されました。
 拝島村農業会の貯金額は、昭和十五(一九四〇)年には九百三十七円でした。それが、年々増加し、昭和十九年には二十一万四千八円にも達しました。これは、産業の発展や収入の増加によるものでなく、生産した農産物の代金を半ば強制的に貯金させられたり、生活を切りつめて割り当てられた貯金額を達成しようとした結果でした。
 農村には、食料を増産することが要求されました。生産した物は強制的に買い上げられました。しかし、農村では、働き手が徴用により工場で働かされたり、応召により戦地に行かされたりし、働く人が不足していました。また、肥料工場の生産が減少したため、肥料が不足することもあって、食料の生産量は下がる一方でした。
 工場も戦争のためのものを作ることが命じられ、西川製糸も海軍系の東亜産業という工場になっていました。
 
拝島村の主要農産物の生産高
年次米(石)大麦(石)小麦(石)甘薯(石)
昭和12年8341,330854235,900
  13年915727509119,790
  14年1,2401,152915148,000
  15年1,0091,0581,401101,200
  16年74241423298,000
  17年68551951356,000
  18年67524641761,250
  19年46629336753,900