拝島村では、防空施設として、貯水池を三個設置しました。翌年になると、防空訓練が頻繁に行われるようになりました。
しばらく空襲はなかったものの、太平洋の地域がアメリカ軍に占領されだした昭和十九年からは、日本本土が度々空襲されるようになりました。夜間の空襲に備えて明かりをつけることを制限する、灯火管制も行われるようになりました。東京地方への爆撃も本格化し、昭島でも、いつ空襲されるかは時間の問題でした。
昭和二十年二月十七日、最初に昭島に空襲がありました。アメリカ軍の航空母艦より飛び立った小型の艦載機がやってきて、拝島国民学校付近や陸軍航空工廠付近が機銃掃射を受けました。幸いにも犠牲者はありませんでした。
三月十日には、東京が大空襲を受け、東京一帯が火の海に包まれました。十万人もの人が亡くなり、逃(に)げのびることのできた人も家を焼かれ、空襲を免れた地域の人を頼って避難していきました。昭島にも、東京から避難をしてきた人々が多数いました。
航空関係の工場が建ち並ぶ昭島は、米軍の攻撃の目標とされました。しかし、武蔵野、東大和の航空機工場に比べ、比較的被害は少なかったようです。これは、占領後、米軍が飛行場を使用するために滑走路周辺の爆撃を控えたためのようでした。
既にアメリカは戦後のことを考えて爆撃目標を選んでいたにもかかわらず、日本側の防空対策は、せいぜいバケツリレーで空襲の火災を消そうと、毎日のように防火訓練をしていました。
防空訓練(昭和19年ごろ)昭島市民秘蔵写真集より
約一か月後の四月四日、昭島にもついに爆撃機がやってきました。午前三時過ぎ、爆弾や、火のついた油が飛び散り大きな火災を引き起こす焼夷弾が投下され、拝島村、中神地区で犠牲者がでる大きな被害を受けました。
拝島村では、龍津寺の東側付近と拝島駅の南西付近などに多数の爆弾が投下され、龍津寺周辺で被爆した二名が死亡しました。
中神地区では、中神駅周辺で五名、福厳寺北の陸軍航空工廠の中神寮防空壕などで三名、また、中神駅の南にある、中神営団住宅では十名の犠牲者がありました。
その後も度々空襲があり、昭島だけでも計十三回、二十九人の犠牲者を出しました。
人々は、庭や崖を利用して防空壕を造り、空襲の時はそこへ避難しましたが、防空壕に入れなかったり、防空壕が爆弾により崩れて埋(う)まり、亡くなるというケースも多く出ました。
防空壕は、空襲の時に退避するために地面を掘(ほ)って作るのが普通でした。そして、爆風を防ぐ目的からなるべく浅く掘るように指導されました。しかし、艦載機の銃撃の被害が伝えられると、人々は、浅い穴を深く掘り直したり、崖の斜面を利用してほら穴を掘ったりして、空襲から身を守りました。
崖を利用して作った防空壕
空襲による被害の記録 「昭島にも空襲があった」より
空襲のあった日 | 地区 | 犠牲者 |
---|---|---|
①2月17日 午前11時前 (小型艦載機の機銃掃射) | 【昭島の初空襲】 ○拝島村国民学校付近 ○陸軍航空工廠 | |
②4月4日 午前3時過ぎ (B29爆弾投下、機銃掃射、焼夷弾) | 【最大の犠牲者】 ○拝島地区 ○中神地区 ○陸軍航空工廠 | 【20人】 ○拝島地区2人(小林善之助、細野善一朗) ○中神地区5人(桜井吉右衛門、田村クノ・田村清子、成澤トシエ、井上軍次郎) ○営団住宅10人(西口末子、西口和雄・西口千枝子、大坪道子、興津重三・興津初子、小澤正義、町田清一・町田久子・町田好雄) ○陸軍航空工廠中神寮3人(後藤幸雄、吉田次郎、森喜策) |
③4月19日 午前10時頃 (P51機銃掃射、日本機墜落) | ○宮沢地区 | 【4人】 ○日本機搭乗員2人(=軍人)(渡辺誠一、五十嵐宗一) ○公共防空壕避難者2人(清水孝吉、向笠馬吉) |
④4月24日 | ○郷地地区 | |
⑤4月28日正午頃 | ○陸軍航空工廠 | |
⑥4月29日 正午頃 (B29爆弾投下) | ○福島地区 ○郷地地区 | 【4人】 ○福島地区(3人)(小川伍助、荒井智幸・中島福眞) ○郷地地区(1人)(沢田?) |
⑦4月30日 | ○陸軍航空工廠 航空廠 | |
⑧5月25日正午頃 | ○昭和飛行機 | |
⑨6月10日 | ○陸軍航空工廠 多摩陸軍研究所 | |
⑩6月11日 正午過ぎ (P51機銃掃射) | ○拝島地区(民家) ○昭和飛行機 | |
⑪7月8日 午後1時頃 (P51機銃掃射) | ○昭和飛行機 ○拝島地区(啓明学園、民家) | 【1人】 ○昭和飛行機勤労学徒中学生(萩原呉郎) |
⑫7月10日 | ○陸軍航空工廠 | |
⑬8月2日 午前1時半頃 (B29焼夷弾) | ○大神地区 ○昭和飛行機寮 ○陸軍航空廠 | |
13回 | 29人 |