学童疎開

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 戦争は子どもたちの生活にも大きな影響を及ぼすようになってきました。
 教科書にも、戦争の勇ましい様子が多くなり、模型飛行機を作ることが授業に取り入れられたりしました。
 遊びも戦争に関係するものが多くなり、軍人将棋などもはやりました。
 政府は、空襲から学童を守り、長期戦に備えるという目的で、学童疎開をすすめました。国民学校の三~六年生が、親戚の家を頼って身を寄せる縁故疎開が基本でした。その後、空襲が激しくなり、学校も空襲の被害に遭(あ)う危険が出てきたため、縁故疎開のできない子どもたちは、学校全体で集団疎開をするようになりました。さらに、昭和二十年には全部の学年が疎開の対象になりました。
 多摩地区には、品川区と赤坂区(現在の港区)の子どもたちが疎開してきました。疎開先の宿舎や教室として使ったのは寺院や旅館でした。
 昭島の地域では、縁故疎開はかなりあったようですが、確認できる集団疎開は、啓明学園の一例だけでした。啓明学園は赤坂区にありましたが、すでに中等部が昭島に移転していました。その中等部に初等部が疎開してきました。
 しかし、疎開先の昭島でも、昭和二十(一九四五)年、四月四日の夜、B29という長さ三十メートルもある大型爆撃機が学校の近くに多数の爆弾を落とし、怖い思いをしました。その夜は、八王子市が集中的に爆撃され、滝山の上に炎が見え、昼になったような明るさだったそうです。爆風で、啓明学園だけでも、ガラス窓三十八枚がこわれました。