九月三日から四日にかけて、アメリカ軍進駐部隊が、立川・横田の飛行場に進駐し、昭島地域の東部と北部に軍事基地が設けられました。
昭島地域にあった軍需工場は、日本の軍事力を徹底的に破壊し、抵抗力をそぐという方針により、解体命令や操業停止命令が出され、いっさいの操業が停止されました。
その中で、昭和飛行機は、戦後一時期、他の工場と同様に操業を停止させられましたが、間もなく、主体工場を連合軍に接収され、占領軍の直轄のもとに、軍用自動車修理工場と部品製造工場になりました。しかし、これは例外でした。
その他の工場施設や住居も占領軍に接収され、占領軍の建物としてほとんどが使用されることになりました。
工場が操業を停止されたり解体されてしまい、働いていた人々や家族は、昭島の地域を離れていきました。
昭島の地域の人口は、敗戦を境に、約一万四千人も減りました。特に昭和町の人口は、前年の半分になってしまいました。
立川に進駐してきた軍人たち
昭島市民秘蔵写真集より
昭和町・拝島村人口推移(人)
年次 | 昭和19年 | 20年 | 21年 | 22年 | 23年 | 24年 | 25年 |
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町・村 | |||||||
昭和町 | 27,755 | 13,542 | 23,254 | 26,705 | 36,498 | 26,787 | 24,059 |
拝島村 | 5,338 | 5,215 | 5,693 | 6,373 | 6,534 | 7,054 | 7,634 |
引きあげ者総数 | 1452世帯 |
引きあげ者取扱数 | 524世帯 |
復員者取扱数 | 928世帯 |
戦災者 | 引きあげ者 | |
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昭和23年 | 108名 | 159名 |
24年 | 212名 | 225名 |
25年 | 202名 | 238名 |
敗戦を機会に、昭島の地域を離れていく人々がたくさんいるのと反対に、入ってくる人も少なくありませんでした。
昭島地域から戦場に行っていた人々が帰ってきました。しかし、戦死した人々の数も多く、昭島の地域での戦死者は五、六十名にも上りました。
また、敗戦により、中国や朝鮮など、海外から引(ひ)き揚(あ)げてきた人や家族、空襲により家を焼かれてしまった人々が新しく入ってきました。
昭和二十二(一九四七)年、昭和町には、千四百五十二世帯の家族が入ってきました。
拝島村でも、昭和二十三(一九四八)年から二十五年の間に、戦災者四百十四名、引き揚げ者六百二十二名の人々を受け入れました。
これらの人々の住居は、工場が閉鎖になり、昭島から離れていった軍需工場の施設や工員住宅が充(あ)てられました。
航空工廠中神寮(元寮監小泉さんのスケッチ)
航空工廠工員寮を利用した集合住宅 昭島市民秘蔵写真集より