そのような工業に代わって建設業が大きく発展していきました。これは、立川飛行場に駐留するようになったアメリカ軍による、立川基地の工事量の増大によるものでした。
昭和二十三年、昭和町の建設に従事する人は、六千二百五十七人で、製造業の二千五十五人を大きく引(ひ)き離し、町全体の就業者の半分を占めるほどでした。
昭和町産業別就業者調査(昭和23) 昭和町誌より
業種 | 人員 | 業種 | 人員 |
---|---|---|---|
農業 | 975 | 商業 | 569 |
林業 | 7 | 金融業 | 102 |
水産業 | 23 | 運輸通信業 | 464 |
鉱業 | 28 | サービス業 | 223 |
建築工業 | 6,257 | 自由業 | 226 |
製造工業 | 2,055 | 公務団体 | 515 |
ガス・電気・水道業 | 102 | その他の産業 | 957 |
人員総合計 | 12,507 |
また、空襲によって焼かれてしまった東京をはじめとする都市の再建や、住宅不足を解消するための建設ラッシュにより、砂利の採取も盛んに行われました。多摩川の河原からの砂利採取は、明治時代から始まり、品質の良いことで評判でした。大正時代から戦争前までは、馬や引き込み線などを使って、採取した砂利や砂を運び出し、鉄道により東京を中心とした都市に送られていました。
戦後、コンクリートによる建設が急速に伸(の)びるとともに、砂利や砂の需要が増え、多摩川の河原には採取した跡の砂利穴が至る所にできていました。
青梅線の利用客数も、昭和二十三年には大幅な増加があり、戦後の混乱を抜けだし、新しい世の中へ歩みだしたことがうかがわれます。
多摩川の砂利採取(拝島橋付近) 昭和32(1957)年 昭島市民秘蔵写真集より