戦前、戦中にも、軍需工場ができ、人口が急激に増加しました。
しかし、物のない時代であり、工場に関係する人々は住宅地のマーケットを利用していました。また、もとから昭島地域に住んでいた人々は、以前からある店を利用していました。従って、人口が増えたために商店が多くなるということはありませんでした。
ところが、駅周辺のもとの軍需工場関係の施設に多くの人が住むようになり、また、青梅線を利用する人が増えるにつれて、商店が次々にできてきました。
特に、東中神駅の南、八清の地域には市場ができ、それを中心に商店が並び、新しい商店街ができあがりました。八清の商店街は映画館まである近隣の人々の集まる繁華街としてにぎわうようになりました。昭島だけでなく砂川や福生などからも人がやってくるほどでした。
八清住宅商店街 昭和30(1955)年ころ 昭島市民秘蔵写真集より
中神駅や西立川駅、昭和前駅といった現在の昭島駅などの周辺にも新しく商店がつくられ、次第に街のにぎわいが生まれ、近郊都市として復興が始まりました。
また、軍需工場関係の施設を利用するだけでは住宅が不足していたため、都営住宅の建設も始まりました。
東京都による二戸建てや一戸建ての木造住宅が建てられました。
その結果、児童数の増加により、昭和二十六年には、拝島地区の二番目の学校として、拝島第二小学校が開校しました。