多摩で七番目の市に

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 明治三十五(一九〇二)年、九か村組合村から拝島村が独立して以来、拝島村と昭和町は、地域的な結びつきはあるものの、政治的には別々の道を歩んできました。
 産業の安定、住宅の建設と次第に発展してきた昭島の地域は、昭和二十八(一九五三)年には、昭和町と拝島村を合わせた人口が三万四千人をこえました。人口の増大により、福祉・教育・厚生などの公共施設の拡充が必要になってきました。しかし、このような公共事業の拡充は、一町村の負担としては大きなものでした。また、交通が発達し、地域ごとの結びつきは一層便利になってきていました。
 そこで昭和町は町村の合併による市制を実施することを計画しました。
 当時、市制を施行するには、
 一、人口が三万以上であること
 二、中心の市街地を形成している区域内にある戸数が、全戸数の六割以上であること
 三、商工業その他の都市的業態に従事する者とその同一世帯に属する者の数が、全人口の六割以上であること
などが主要な要件でした。
 昭和町は、このうち、人口が三万に達していなかったため、昭和二十九年、拝島村との合併を議決し、拝島村に申し入れをしました。拝島村では、福生町からも同様の申し入れがあったため、昭和・拝島・福生の三町村での合併を決定し、福生町へそれを申し入れました。しかし、福生町がそれを拒否したため、昭和町と拝島村の合併を推進することになりました。
 両議会の議決をもとに、昭和二十九年五月一日、昭島市が誕生しました。
 昭島の名は、昭和町の「昭」と拝島村の「島」をあわせたもので、両町村の恒久的和合と団結により一つとなることを祈念してつけられました。この時の人口は、三万四千九百十二人、世帯数は七千九百九十一戸でした。

市制施行記念式典 昭和29(1954)年5月 昭島市民秘蔵写真集より