東京オリンピックと奥多摩街道

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 戦後、立川駅からのバス路線が開通し、奥多摩街道を拝島まで通るようになりました。道路も整備され、自動車が行(い)き交(か)うようになりました。しかし、産業が発達し、トラックが荷物輸送の主役となり、自家用車も次第に普及してくると、狭い奥多摩街道では、交通渋滞が起きるようになってきました。
 そのようなとき、昭和三十九(一九六四)年、東京でオリンピックが開かれることになりました。東京都は、自転車競技のロードレースの場所として八王子、立川、昭島を通るコースを計画しました。そこで、奥多摩街道の南側の田んぼの中に道路を造り、コースとして利用することと奥多摩街道の渋滞を解消することを計画しました。その結果、奥多摩バイパスが造られました。
 オリンピックでロードレースが行われた日、道路周辺の人々は大変でした。六十キロを超えるスピードで自転車が疾走してくるため、事故があったら一大事であると、子どもに飛び出さないように注意するのは当然ですが、犬や猫も絶対に飛び出させないように、家に閉(と)じ込(こ)めたり、しっかり鎖でつないでおいたりしました。

奥多摩街道でのロードレース 三田鶴吉氏所蔵

 さらに、多摩大橋がつくられ、道路網が一層整備されました。

多摩大橋