滑走路が住宅団地に

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 昭和飛行機の滑走路は短かったので、戦後しばらくは、駐留軍の小型飛行機が利用していましたが、その後、ゴルフ場になっていました。
 昭和五十六(一九九一)年より、この滑走路を中心にした広大な敷地に高層の大型集合住宅、つつじが丘団地が建てられました。ここには、二十二棟の建物に、約二千六百戸の家族が入居し、一つのニュータウンがつくられました。

つつじが丘団地

 商店、小学校や中学校、病院、児童公園、市民会館なども計画的に造られ、新しい町が一つできあがったと思えるほどでした。昭和五十九年には、昭島駅北口が整備され、大型の商業施設が開店し、スポーツ施設と併せて、周辺の市の人々も訪れるような地域となりました。

昭島駅北口の大型商業施設

 学校の数も、大型集合住宅の建設とともに増えていきました。
 戦後の転入者の増加により、富士見丘、拝島第二、東、光華小学校と清泉中学校が建てられました。その後、大型集合住宅の建設や改築の度に、拝島第三、中神、拝島第四、共成、武蔵野、田中、つつじヶ丘南、つつじが丘北小学校が建てられ、中学校もまた、多摩辺、福島、瑞雲と増えていきました。