この起点はどこでしょうか。敷設願には「線路予測平面図」が添付されています。右の画像①1は、拝島村部分の拡大図です。起点の停車場は拝島の渡しに至る道(埼玉街道)沿いにあり、立川用水(現昭和用水)の南側にあります。当時、渡し場への道は、現国道十六号よりもやや西にありました。従って、起点は拝島橋の西、より正確には「拝島高校東交差点」付近となります。
画像①1 最初の大正8年「線路予測平面図」
(東京都公文書館306・F1・09)
起点部分を拡大。〇が停車場位置。「多摩川拝島停車場」の名前が見える。太線が予定線で次の停車場は熊川村。
画像①2 大正8.4「軽便鉄道敷設願」
(東京都公文書館306・F1・09)
紅林七五郎は31ページを参照。小柴三郎(麻布区)は砂利商、瀬沼伊兵衛(西秋留村)は後の政友会代議士、森田退蔵(麻布区)は熊川村(現福生市)の森田製糸経営者で当時は住所を移していた。岩本重四郎(神田区)は銀行員。以下4人は五日市町で土屋大次郎は織物仲買業、松本伴次郎と小川善右衛門は呉服商、土方乾之助は農林業。羽生順吉(大久野村)は農林業、小机三造(増戸村)は農業、荻島清太郎(増戸村)は織物仲買業、瀬沼利民(西秋留村)は織物仲買業、藤村静朗(千駄ヶ谷町)は上海電気工手。拝島村の小林悦次郎は村会議員や村助役を歴任。旅館業で屋号は橘(立花)。(鉄道省文書ほか)
なぜ、このような場所を起点にしたのでしょうか。それは、申請代表者が郷地村(昭島市郷地町)の紅林七五郎であることと関連があります。当時、七五郎は甲武鉄道当時からの砂利専用線(後の中央線多摩川支線)とつないで、更に拝島まで延長する別の専用鉄道(後の多摩川砂利木材鉄道)の敷設免許を得ていました。敷設願いの起点は、この七五郎の専用鉄道の終点と同じ場所なのです。この敷設願いに込められた七五郎らの真意は、二つの砂利専用線(以下、「砂利線」とする)を旅客用にも転換し、立川から五日市まで一本の路線にすることまで考えていたようです(第3章多摩川砂利木材鉄道参照)。
なお、添付されている計画路線図には、拝島に続いて熊川、東秋留、大塚、西秋留、伊那(伊奈)、五日市及び勝峯停車場が予定されていました。
画像①3 紅林七五郎
(関東実業新聞。大正7.5.20)