敷設工事に着手

15 ~ 15 / 130ページ
 拝島以西の路線については、街道沿いの集落を通る南ルートと、増戸村まで一直線の北ルートのどちらにするかの問題が早くからあったようです。いわゆる誘致合戦ですが、最終的には工事費の点などから現在の北ルートに落ち着きました。
 工事は大正十二年春にようやく始まりました。その直後には関東大震災が起こり、多摩川架橋という最難関工事もありました。資本金百万円でスタートした会社は、その後も資金調達には苦心したようです(『五日市町史』1976)。
 

画像①8 工事中の多摩川橋梁
(郷地町・伴みや氏所蔵。1991複写)