八高線の建設計画が明らかになったのは大正九(1920)年十二月、鉄道省が作成した「鉄道敷設法予定線一覧表」に登載されたのが最初です(昭島近代史調査報告書Ⅱ「青梅鉄道昭島関係史料集」平成26年)。八高線建設計画が浮上すると、実は、拝島村と福生村で駅の誘致合戦が始まりました。拝島村には近隣の有力者を巻き込んだ大正十五(1926)年五月一〇日付の請願書(拝島村役場「八高線ニ関スル書類」所収)が残っています。つまり、五日市鉄道が敷設免許を得た段階(大正13年2月)では、八高線の路線はまだ決まっていなかったのです。
拝島駅を所管する青梅鉄道に鉄道省から八高線建設の照会があったのは昭和二(1927)年十一月のことです。拝島駅乗り入れが最終決定したのはこの頃で、すでに着工していた五日市鉄道は工事の設計変更を行いました。こうして、五日市鉄道が八高線の下を通る構造となりました。線路跡が切通しになっているのはこのためで、次の大神駅の構造にも影響がありました。
八高線は五日市鉄道の一年後、昭和六(1931)年十二月に八王子・東飯能間(八高南線)が開通しました。蒸気機関車が上を、ガソリンカーが下を走る光景はどうだったのでしょう。
画像①43(1988年)東から見た八高線鉄橋
五日市鉄道は八高線の下を通っていた。橋脚部も五日市鉄道が建設か。撮影時の線路跡は草ぼうぼう。
画像①44 現在の地下道入口と八高線電車