紅林七五郎らの専用鉄道申請

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 明治四十二(1909)年九月、郷地村の紅林七五郎らは砂礫、木材の運搬を目的とする専用鉄道の申請書を提出しました(画像②1。紅林七五郎については第1章参照)。福島村(現昭島市福島町)から拝島村に至る路線で、距離は三・四キロメートルの計画です。
 福島村を起点とする鉄道というと奇異な感じもしますが、これには理由がありました。当時、立川駅を起点として中央線多摩川鉄橋から分岐する砂利線がすでに操業しており、紅林らの計画はこの砂利線(後の中央線多摩川支線)をさらに拝島村まで延長する専用鉄道(画像②2参照)を申請したもので、そのために起点が福島村になったのです。
 

画像②1 専用鉄道申請書
(東京都公文書館302.B8.21)

 

画像②2 中央線鉄橋の上流側砂利線
(明治42年地形図。1/2万「拝島」。大日本帝国陸地測量部)

砂利線は右の中央線多摩川鉄橋から左岸を西に。当時の福島の渡し(現在の福島通り付近)まで敷設されている。多摩川砂利木材鉄道はこの砂利線の終点から上流に向かって延長される。
 
 なお、中央線多摩川鉄橋付近における最初の砂利線、というより多摩川筋最初の砂利線は明治二十五(1892)年、当時の甲武鉄道が下流側左岸に敷設したものです(東京鉄道監理局「砂利に関する調査」1925年)。採取された砂利は鉄道バラスト用として、当時工事中であった青梅鉄道・川越鉄道の敷設工事にも使用された可能性があります(『立川市史』、1974年)。
 その後、紅林七五郎の父・徳五郎が主導して上流側にも砂利線が敷設(画像②2)され、この上流側の砂利線は甲武鉄道を経て国有化されました(三村章「多摩川砂利木材鉄道」。『多摩のあゆみ』70号所収)。