どのくらいの砂利を運んだか

66 ~ 66 / 130ページ
 開業した多摩木鉄道は沿線の宮沢村、大神村、田中村の多摩川砂利を積み込み、もう一つの砂利線を通じて中央線に入りました。このもう一つの砂利線はやがて正式に「中央線多摩川支線」となり、その終点である福島村には昭和五(1930)年四月一日、「多摩川原駅」という貨物駅が開設されました。立川起点三・七キロメートルの地点です。
 さて、多摩木鉄道が運んだ砂利はどのくらいであったか。残念ながら明確な史料はありません。今のところ、ほぼ唯一のデータが画像②7です。東京鉄道局運輸課がまとめたもので、河川別・駅別の砂利発送トン数が記載されています。しかし、これにも多摩木鉄道単独のデータはなく、中央線「多摩川支線」として一括して計上されています。これによると、中央支線は大正末期の四年間、多摩川筋では最も多い発送量となっています。どれだけ重要な砂利線であったか推察されます。
 同資料には中神駅と拝島駅も記載されています。拝島駅は第3章で述べますが、中神駅砂利発送人として篠新太郎が確認できます(青梅電気鉄道文書「貨物関係統計」)。
 

画像②7 大正末期の多摩川砂利駅別発送トン数
(「砂利に関する調査」東京鉄道局運輸課、1925年)