多摩川砂利木材鉄道で働いていた田島利夫さんの話

67 ~ 67 / 130ページ
(大神町4丁目。大正5.7.2生。1992.5.23聞取り)
 田島さんは高等小学校卒業と同時に15歳で多摩川砂利木材鉄道へ就職。以来、昭和20年の鉄道廃止後の残務整理まで21年間勤務している。
○8年間の高等小学校を出て、多摩木へ就職した。当時の所長は中島さんで、次が上山藤一さんだった。正社員は3,4人と少なかった。最初の頃は知らないが、後半の社長安藤さんは安藤組(安藤建設)の社長だった。本社は国会の近くだった。
○入社当時は福島に事務所があった。今のアライ印刷のところを入った場所だ。事務所は次に大神グラウンドの北側に移転した。ここは元々浅野石材の事務所があった場所だ。次に今の田中町へ移転した。その後また移転し、最後の事務所は大神グラウンド北側の東西の道路の入口左側にあった。
○入社した時、既に多摩木の線路は拝島の水路の手前まで延びていた。水路よりも西に行くには許可を取らないと難しいので、水路の手前で線路は止まったのではないか。
○線路の終点付近(田中団地南)では、線路は堤防の内側にあり、現在は道路になっている。
○田中と大神の境の坂(浄土坂)を下ったあたりでは複線になっていて、貨車が方向転換できた。
○省線との連結部は、今の粟野鉄工所付近で、ここも複線になっていた。その東に紅林組の砂利置き場があった。
○木材鉄道となっているが、木材を運んだ事実はないと思う。
○貨車は普通は1日に1回運行した。昼ごろ立川からやって来て、夕方の5時ごろ引き上げた。その間に砂利を積みこむわけだ。
○多摩木には貨車はなく、鉄道省に運行は任せていた。貨車は予約することもあった。砂利が多いときは1日に2回往復。5輌編成だった。
○今の大神グラウンドに下る手前の西側に大きなホッパーがあった。これは浅野石材(浅野セメント系列)が造り、多摩木が引き継いだ。鉄道廃止後、後に管理した西武建設がホッパーは壊した。ホッパーは米松で出来ていた。
○戦争が終わったとき、線路は田中の複線部分の半分まで外されていた。終戦になったので軍隊は帰ってしまった。