西尾保の砂利採取許可書

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 覚書にある西尾保の住所は東京市四谷区とあります。前出の申請書では拝島村一八七七番地でしたので、なぜか変わっています。一方、昭和四(1929)年東京府発行の西尾保砂利採取許可書(画像③6)では再び拝島村の住所になっています。こうした点から、西尾保は元々の拝島村住民ではないと考えられます。この採取許可書によると、採取地は南多摩郡加住村地先で、併せて「機械船の設置」、つまり手掘りではなく大規模な採取許可を得ていることがわかります。
 

画像③6 西尾保の砂利採取許可書
(青梅電気鉄道文書15-I-01)

 

画像③7 西尾組遭難事故を報じる新聞
(昭和3.8.2東京日日新聞府下版)

「遭難人夫十四名は決死隊に救はる。あと二名も無事漂着。生死不明は一名」
紙面二段目にあるこの見出しは西尾組の砂利採取場で起こった遭難事故の新聞報道です。昭和3年の7月29日から関東甲信越地方は豪雨に見舞われ、各地に被害が出たようです。山梨県下の中央線沿線でも大きな被害が続出しています。
 こうした中、7月31日に拝島村先の多摩川で砂利採取を行っていた西尾組の作業員16名が中州に取り残される事態が発生。豪雨による濁流のため救出は困難を極めていました。記事によると8月1日に拝島側から5人が、加住側からは3人が小船で決死の救助に向かい、どうにか救出に成功し、加住村左入で陸に上がったようです。この救出に向かった人の中には日頃、築地の渡しで働いていた人もいました。そのほか、2名は泳いで日野などに漂着しました。報道時点で15名は無事、残り1名が行方不明となっています。
 左上は多摩川の中州から3名を救助して戻る小船、その下は救助した人の写真です。救助した人たちは「身命ヲ賭シ神秘的ナル救出活動」として称えられました。
 古老によると、助けを求める声が夜通し聞こえたようです。また、大々的に新聞報道されたこともあり、この出来事は広く伝わっています。
 

画像③8 西尾組砂利運搬軌道と思われる写真(拝島町 昭和初期)
(「昭島市民秘蔵写真集」1993年より転載)

 写真説明には「砂利は建設や震災復興などに使うため、砂利線によって集積場へと運ばれた。滝山丘陵が向こう側に見える」とあり、右奥にも砂利運搬トロッコが見えます。
 撮影時期、撮影場所から西尾組砂利運搬軌道だと思われます(もう一つの可能性として、五日市鉄道拝島支線につながるトロッコとも考えられます)。西尾組軌道だとすれば、このまま拝島駅まで運行した可能性もあります。
 先頭はガソリン機関車で、アメリカのプリマス(プリムス)社、ホイットコム社、国産では加藤製作所製などのメーカーがあったようですが特定はできません。また、軌間(レールとレールの間)は2フィート(610ミリ)だと考えられます。
 

画像③9 橋梁施工図

 当初の「公有堤防使用許可願」に添付された図面。上の画像③8橋梁は、この施工図とは異なり、かなり頑強な橋のように見えます。砂利採取地は時間とともに変動するため、橋梁の構造もそれに合わせて増強したとも考えられます。