西尾保と五日市鉄道その2(西尾軌道の廃止)

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 大正末期から運行した西尾組砂利軌道は、昭和五(1930)年頃にはすでに使われなくなったと思われます。わずか五年間ほどの操業期間でした。使われなくなった要因は、どうやら五日市鉄道との関係にありそうです。
 西尾組砂利軌道で運ばれた砂利は、青梅鉄道拝島駅の手前で青梅線貨車に積み替えており、当然ながら青梅鉄道とは深い関係がありました。西尾組(=第一砂利)の砂利は主に鉄道省に納入されていました(青梅電気鉄道文書「旧契約綴」18A01)。
 一方、西尾保は青梅鉄道に支払う貨物運賃を滞納していた形跡があります。ちょうどその頃、五日市鉄道立川延長線の工事が始まり、同時に、同じ砂利線である五日市鉄道拝島支線の敷設も現実になっていました。こうした状況の中、青梅鉄道の運賃を滞納している西尾保が五日市鉄道の砂利線利用に乗り換える動きがあったと思われます。その時、青梅鉄道に届いたのが西尾保からの親書(画像③10。昭和4・3・31付)です。
 親書には「五鉄の誘惑に惑はさるゝ事なく一意益々貴社御利益の為め奮闘仕る可く候間御安心被下度」の文面があり、西尾は五日市鉄道への乗換を否定し、青梅鉄道に安心するよう述べています。しかし、昭和五年度の拝島駅の砂利発送人から西尾・第一砂利の名前は消えています(青梅電気鉄道文書09C04)。この時点で西尾・第一砂利は青梅鉄道との関係を断ち、五日市鉄道へ乗り換えたものと考えられます。五日市鉄道拝島支線の開業は昭和六(1931)年十二月です。以下は第4章で。
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 「西尾組のトロッコは木製で、一日三回運行していた。トロッコに乗って遊んだこともある」。大正七年生まれの拝島町・大澤彦司さんから以前、伺った話です。
 

画像③10 西尾保の青梅鉄道宛親書
(青梅電気鉄道文書15-I-01)