編集後記

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 戦後昭島市が飛躍的な発展をとげ、農村的性格を一掃して、首都圏の中の一衛星都市となり、いわゆるベッド・タウン的性格を帯びた、東京都西部の都市に変貌してくると、それまで数百年にわたり、この地域を祖先以来の故郷として、住み慣れた土着の人びとの数を上廻る、莫大な数の外地からの転入者が、この市域内に居を構え、新たな昭島市民としての生活を営まれるようになった。こうした市としての人間構成の上での変容に加えて、経済的な成長にひきづられて、市域の環境も大きく変化せざるを得なくなった。あらゆる分野での変革は、一方では古い歴史環境をいかに近代化の中で保存していくべきか、あるいは郷土の祖先以来の努力の結晶として遺されてきた文化遺産を、いかに保存し、継承していくべきか、というような課題が、新興都市が共通してかゝえる問題として、昭島市にも必然的に発生してきた。近代化と開発、それと裏腹に生ずる文化財保護と民俗文化の伝承という課題は、近代化と開発の進展に伴ってます/\深刻な相剋を惹起する。このような難問を解決して、両者の目的を円滑に遂げさせるためには、市民全体の善意による協力が必要であり、それを得るためには、昭島市の土着の住民は言うに及ばず、新しく転入されて、まだよく昭島市という地域についての馴染の薄い市民の方々には、特に昭島市の実態や、またその成り立ちから現代に至るまでの経緯を、正しく理解して、郷土に対する認識を深めてもらうことが前提となる。こういう目的から、昭島市では、急激な社会の変化と共に、地域住民の間からも、郷土を見直そうという風潮がぽつ/\一部市民の間から起ってきたという現象をとらえ、昭和四十年代に入ると行政当局の中でも、昭島市の歴史を研究し、市史を編さんしようという気運が芽ばえてきたのであった。
 何度か昭島市史の編さんということが計画されていたようであるが、およそ市史編さんというような文化事業は、莫大な費用と、長い年月を費さなければ、一朝一夕にできる事業ではない。そのため諸々解決しなければならない課題があり、行政当局は慎重を期して計画を立て、市史編さん事業に対する一応の見通しをつけてから、着手しなければならないので、その計画が実行に移されるまでには数年間の準備期間を要したようである。その間地域住民の要望もたかまってきたこともあって、当時の新藤元義市長は、昭和四十八年度より、市制施行二十周年記念事業の一環として、昭島市史編さん事業を発足させる決定を下されたのであった。こうして昭島市史の編さんが実行に移され、昭和五十三年五月発刊を目標に、その事業が推進されることになったのである。
 昭島市史の編さん事業は、このように昭和四十八年度から開始されたようであるが、この年度は専ら市役所内部で、事業遂行上の準備期間として、その組織づくりや、基本的な編さん方式などが検討された。近隣市町村ですでに行なわれている編さん事業の実態調査をもとにして、昭島市史編さんの基本方針が議せられていた。昭島市としては、郷土の市民の手で、歴史を編さんしていく方向を、望ましいとしながらも、とにかく五ケ年という短時日の間に調査・執筆・刊行を遂行しなければならないということと、財政的にもそれ程長期間にわたる事業として遂行することも困難な事情もあるので、専門家に調査執筆を委託せざるを得ないという結論に達し、まず市としては、その準備のため、市史編さん担当主査を任命して、そのことに当らせることとなった。
 こうした市側の準備ができた後、昭和四十九年春、私の所へはじめて、この計画によって昭島市の編さんを引受けてほしいという要請をうけたのであった。実は市制十五周年当時にも市史編さんが計画されて、私が立川市史の編さんを終えた直後、私に委託の話があったが、その計画が中止されたので、取消しの連絡をうけたことがあった。そういう因縁もあってか、再び市史編さん事業が開始されたので、是非引受けて欲しいと要望されたのであった。
 私としては、昭島市史の編さんという大事業に対して、その調査期間が余りにも短期間であること、未だ充分史料調査が行なわれていず、どこに、どれだけ関係史料が眠っているのかの見当もつかず、その調査だけでも相当の期間を要する筈であるが、それを読解し、歴史叙述に役立てるための研究期間が殆どないということ、しかも、市史発刊の期日が、昭和五十三年五月を目途として、絶対にその期日が動かし難いものであるから、如何なる障害が起っても、この期日は延ばせないという、絶対条件にしばられていること、これら諸般の事情から考えて、きわめて大きな無理がこの編さんには初めからつきまとっていることを知ったのである。このような条件下で市史編さん・調査・執筆を引受け、約束通りの期日に刊行することは、不可能に近いので、全く関係のない、私自身の知らない市町村からの依頼であったならば、即座は断るところである。しかし私は子供の頃から拝島や中神には親威もあり、友人も居り、しばしば訪れたことがあって、親しみをもっていた土地であり、「ヘージマのデーシ」(拝島の大師)などと言って遊んだことも思い出す。それに前にも依頼をうけたこともあるという因縁もあるから、「では、できるだけやってみましょう。ただし、与えられた短期間を限っての、調査・執筆という条件ですから、その範囲内での可能な限りの努力を尽すということで、当初から完壁な市史を作成するということではなく、昭島市史として最初のものであるから、まずそのアウトラインを、通史的に概観を与え、後日再び別な方々によって補正追加が行なわれることに期待するという意味での、昭島市史ということになりまょうが、それでよろしければ。」という条件で、委託をうけることにしたのであった。それでよいということであったので、いよいよ昭和四十九年の秋から、私は本格的に昭島市史編さんにとりかかった。まず私と共に、市史編さん調査員として、調査執筆を分担してもらうために必要な人員の委嘱からはじめ末尾に列記した、十三氏を委嘱することになった。そしてまず市域内の史料の調査から始めることにした。当市では早くから故山崎藤助氏による郷土研究会があり、昭和町誌・拝島村誌をはじめ、市域内の各旧村単位の村誌として、調査研究された資料も存在したので、そうした先学の研究を参考にすると共に、従来より行なわれていた市文化財専門委員会(現文化財保護審議会)の委員諸氏の御援助を仰ぎながら、各担当部門別の調査を開始したが、まず昭和四十九年度は調査予備期間として、調査員各自が昭島市に馴れることと、どの程度に必要な史料が得られるかの当りをつけておくことを、主な調査の対象とした。その結果、近世史の部門において地方文書が相当数現存していることが明らかになり、その調査を重点的に実行すべきであるとの見解に、皆の意見が一致した。
 また私は地元の研究者各位との密接な連携のもとで、調査を進めるため、また各分担部門の調査員相互の連携を計り、短期間での調査をより効果的に行なうため、毎月一回調査員相互の研究会を開き、調査の進行状況を話し合うと共に、調査結果の中間報告を兼ねて、研究発表を行ない、その研究例会には、文化財専門委員(現文化財保護審議会委員)の諸氏の自由なる御参加をお願いし、種々御意見をいただき、調査研究の上に有益な示教をいただけるように取計らったのである。
 一方市史編さん事業を遂行するためには、一般市民の理解と協力が必要であるので、調査の進行するに従って、その成果を一般市民に周知させることが必要なことである。それ故市の広報を通じて調査への協力を依頼したり、資料の提供を呼びかけたりすると共に、次年度より、調査の一応まとまったものから、市史調査の中間報告として、市史資料編の発刊を企画した。
 このように昭和四十九年度は調査の予備期間であったが、調査のメドが立ち、着々と計画通りに運ばれて、編さん体制が整ってきた。昭和五十年三月二十九日には条例第七号を以て、昭島市史編さん委員会条令が制定された。
 市史編さん調査の第二年度である昭和五十年度をむかえて、まず古文書調査蒐集・文書解読などに当る市史編さん専門員が委嘱されることになり、白川宗昭氏が任命されて、調査に参加されることになった。また六月には、第一回市史編さん委員会が開催され、市長より十四名の委員が委嘱されて、市史編さん体制の上部構造ができ上り、以後この編さん委員会によって、円滑に市史発刊の運びについての審議が行なわれることになった。
 調査活動は、前年度の予備調査で明らかになった史料についての個別的調査に入り、民俗部門では、市内在住の古老より、昔話や慣習等の伝承資料の探訪をはじめた。また事業の一環として、その中間報告をかねた資料編の発行についても、文化財専門委員石田健造氏の調査による、市内十二ケ寺の近世墓誌銘の調査と、市内の板碑の調査を収録した報告書『板碑と近世墓』と、調査員(近世部門)及び専門員が採録した地方文書の目録を、調査の終った上川原町・郷地町の分約四千点をまとめて、『地方文書目録Ⅰ』として刊行した。なお目録は引き続き白川専門員の調査によって昨年十月一日現在で市内五十五家に所蔵されている約五千点に及ぶ『地方文書目録Ⅱ』が作成されるなど、目覚しい調査の進展をみることができた。
 この状況に呼応して、昭和五十一年度の予算編成に当り、市財政の緊迫した中であったにも拘らず、市当局者や、市議会議員諸氏をはじめ、財政当局者などの、市史編さんについての、郷土を愛する志に発する、正しい理解と、あたたかい援助の厚意に支えられて、諸事削減の折にもかかわらず要請通りの予算が承認されたことは、次年度の調査活動を円滑に行なえる基盤を定めていただけたことであって、われわれ調査員一同の大きな喜びであった。
 昭和五十一年度は、調査期間の最後の年であり、全調査員は各分担分野での調査を継続しつつ、全力をあげて最後の調査を敢行した。しかし短期間の調査であり、しかも探究にしたがって思いの外の史料が発見され、近世の在地史料は到底本調査期間中には調査しきれない程の分量が発見された。民俗調査の分野でもまた期日がせまり、年中行事や、祭礼などは、今年一年間に再調査を遂行しなければならないようなものもあって、調査活動は一段と繁忙を加え、調査資料の検討のため、数日間の合宿ディスカッションの会合を開いたことも一再ではなかった。
 一方では、調査と共に、次年度からの市史原稿の作成の準備も進めなければならず、調査主任の私が一応『昭島市史』執筆の目安のため、編章に分けて、市史目次の案を作成し、市史編さん委員会に提示して、検討を重ねた上、委員会の承認を得た。この目次は執筆前の段階で、私が作成した試案であるから、執筆に際し、各調査員の分担執筆に際しては、多少章節の変更、移動があることは当然で、執筆完了の後、最終的な編成目次を改めて委員会に報告することとしたのである。
 なお五十一年度の調査の進展によって、五十一年十一月までに、四十七軒、七一六五点もの文書が発見され目録が作成された。又、本年度の資料編の発行については、民俗編として、『民俗資料としての農事日誌』を刊行することができた。
 昭和五十二年三月末日を以て、一応市史調査を完了することとし、昭和五十二年度としては、不充分ではあるとしても、限られた過去二ケ年余の調査を基礎に、とにかく市史の原稿執筆にかからなければならず、調査員全員が、それぞれ目次編成に応じた分担に従って、各自の分担時代や項目別に即して執筆にかかった。原稿作成と共に、挿入すべき写真・地図・表などの用意も並行して行なわれ、調査員の他に、稲葉主査・白川専門員もそれらの作業に協力をしていただいたし、文化財や現況の写真の撮影に際しては、水野正統氏の協力を得る所があった。原稿執筆は五十二年四月より始められ、同年九月末日までに、略々本編通史の原稿が出来上り、十月には出揃った原稿のプリントを行ない、それを編さん委員会に報告・提示して、各委員が分担して通読・検討をし、承認を得た上で、漸くにして同年十二月二十八日にいたり、印刷所の入札結果が決定され、東京都千代田区神田錦町の大文堂印刷株式会社によって昭島市史の全編が印刷製本されることになり、昭和五十三年一月中旬より組版に着手することとなった。
 別に、執筆に入ると共に編さん委員会において、昭島市史の装幀や体裁について論議され、昭島市史を本編と附編との二分冊とし、本編は通史、附編は資料編として編さんする旨が論ぜられ、この案が了承されて、ここにみられる昭島市史の刊行の大綱が決定されたのであった。
 昭和五十三年度は昭島市史の刊行の年である。当初の予定より、調査員によって分担執筆された原稿は案外に増加し、当初の予定頁数を上廻る大部な市史となったため、刊行の予定期日がやや遅れ、また本編の増頁によって、附編の編成が異なり、「民俗編」を本編より附編に移し、それに本編に関連する史料の原文をまとめた「史料編」と合せて附編を構成することに変更を余儀なくされた。そして昭和五十三年十月三十一日、印刷製本が完了して納本される予定のもとに、着々と進行している。
 ところで本編および附編の執筆者の分担は左の通りである。
  水野祐   第一編、第四編第三章・第四章
  市毛勲   第二編、第三編、第四編第一章・第二章、第五編第三章第四節
  広瀬外茂子 第五編(市毛氏執筆箇所以外)
  清田義英  第六編第一章・第二章
  小野一成  第六編第三章・第四章、第八編第二章
  紙屋敦之  第六編第五章、第七編第一章・第二章第二節
  湯浅隆   第七編第二章第一節・第三節、第七編第三章第一節・第二節一~三・第三節二
  保坂智   第七編第三章第二節四~五・第三節一・第四節、第七編第五章
  杉仁    第七編第四章
  中西吉治  第八編第一章・第三章・第四章
  水野紀一  (附編)民俗編第一章・第二章・第七章
  瀬山健一  (附編)民俗編第三章~第六章
   なお附編の史料編は、紙屋、湯浅、保坂、杉の四氏があたった。
 調査員の任務は、昨年の原稿完了を以て一応完了したわけであるが、更に五十三年度には、市史刊行のため、引続き調査員全員が、各自の分担執筆をした、編章についての校正を分担し、三校までを著者校としてみることとし、更に稲葉主査・白川専門員が加わって全体の校正に目を通すこととした。また校正の一部は宮代公美子氏をわずらわして、援助してもらう所があった。
 大要右の如き経過をへて、昭島市史は刊行されることとなった。当初より私がその調査と執筆を委嘱され、私共の大学の日本史学研究室の研究員中から時代別に調査員を選出して、それらの人びとの協力を得て、調査・執筆を行なうことができた。しかしはじめにも記した通り、きわめて短期間での調査、そして通史の執筆ということが要求されていたので、私としては、充分なる調査を徹底的に行なう時間がないまま、執筆をせねばならなかったという状況の下で、この市史を刊行することになった。それは当初より明らかなことであったから、私達はその与えられた期間内での、限定された調査と、その結果にもとづく市史の編さんということで、この市史の完成につとめてきたわけであり、したがって、この市史をもって完全無欠なものとは考えていない。ただ本市史が、これまでこうした昭島市の歴史を、日本の歴史の流れの中で、どのようにとらえることができるか、日本の歴史とどのようにからみあって、昭島の歴史が展開してきたかを通観できるような書物が刊行されていなかった。その意味で、昭島市史としては、本書が通史として初物であるという意味合いにおいて、市民各位の御参考に供するものであるという点で、多少とも貢献できれば幸であると考えている。
 私はいま本市史の編集を終えて、ふり返ってみると、まだまだ書くべくして書き得なかった多くの問題も残してあるし(それは主として歴史事実としての伝承はあるが、確実な史料というものがなく、史実として認定しかねるものが多かったという意味である)、史料もようやくその所在をつきとめたものの、それを充分史料批判を加えてから、歴史の敍述に使うという余裕がないので、ただ必要な史料の一部を引用しながら敍述をせざるを得なかった実状でもあったし、決してこれを以て昭島市史の定本を完成したなどとは思っていない。この昭島市史の完成は、同時に昭島市史の新たなる研究の出発点であると感じているのである。実際昭島市史の真の研究は、これから漸くその緒につくべきものだと思っているのである。昭島市史を、昭島市の市民の手によって調査し、歴史として記述され、完成させるということは大変のぞましいことである。しかし、歴史を述作するには、やはり歴史学的研究の基本的な方法があるし、その正しい方法により、厳密な史料批判によって、正しい事実の認定をした上で歴史をつくらなければならないが、一般市民の手による歴史の完成は、こうした正当な歴史学研究方法に準拠して行なわれるべきである。そのためにはやはり相当の期間を要するし、またわれわれの今回の市史研究の調査が時間切れとなって、その所在をつきとめたままになっている、尨大な史料の、一つ一つを、克明に検討するという事業は、市史が完成した今日以後に、のこされた大事業であり、しかもそれは一応期限がきて市史編集の完了を果たした私共のあとをついで、新たなる組織のもとで、研究者たちの力によって、是非共継続していってもらわねばならぬことである。そういう長期にわたる継続的な研究が完了した暁こそ、完壁な定本となるべき昭島市史が再び編さんされる時である。私はやがてその日を迎えることに期待をよせているのであるが、その日の来るまで、つなぎとして、今回私たちが一応まとめあげた昭島市史を市民諸氏の前に提供し、市民参加の市史研究のためのテキストとして使って頂けたら幸であると思う。私はこの市史は、いわば昭島市史研究という大きな仕事の出発点を確立させるためのものであるという考えで書き上げたのである。昭島市史研究という大レースの、スタートラインを正しくひき、定本昭島市史完成というゴールに向って、一斉にスタートすべき、市史研究レースへの参加選手を、正しい位置に立たせるために書いたものだと思っている。今後の昭島市史の研究者に対し、一応共通の基盤を提示し、そこから出発してもらうことに役立たせて頂ければ、私のこの市史の役目は果たせたものと思っているのである。要はこの市史は草稿本である。これをたたき台にして市民各位の努力で、正しい昭島市史の研究の気運が醸成されることを希ってやまない。
 この昭島市史は、近代史の部分が分量的に少なく、また他の時代に比して、内容的にも簡略であると言う見方がでてくると思うし、また特に市民として知りたい点は、むしろ現代の昭島なのだから、特に近・現代を中心に書くべきであったという見方もある。私はそういう要望を全く無視しようというのではないが、私の歴史観によって、歴史の敍述は、少なくとも五十年前で筆を折るべきだという信念によって、特に近代の昭島としては、明治時代までを主対象とし、大正・昭和時代については、年表的に重要な事実について、列記するにとどめるという編集方針を立てたのであった。それは、この時期については、充分にしてかつ公平な史料が出揃わないため、正しい史実を抽出し得ないことと、その間に起生した個々の事実についての当事者が、なお生存中であるということを考慮すれば、その時代のことを赤裸々に記述することは不可能に近い。史料の偏在性が問題になるので、正確な史実の記述が期し難いという点も考慮されることであるから、あえて触れないことにしたのである。また近・現代の昭島を知るためには、むしろ歴史学的方法ではなく、社会学や、地誌学などの学問の領域からの調査・研究に委ねられるべきで、そのためには『昭島市史』ではなく、それとは別に、『昭島市誌』として纏められることが望ましいと考えていることにもよるのであった。
 以上のような私の見解によって、私はこの昭島市史の編集にあたってきたのである。この市史の編さん、あるいは編集や、調査については数多くの方々の御協力を得、御援助をうけてきた。編集を終えるに際して、これらの多くの方々からの絶大なる御援助に対し、誠心感謝の意を表すると共に、厚く御礼を申し上げる次第である。最後に、本市史の編集・執筆に関係した市史編さん委員会委員の芳名、調査員の氏名、調査協力者の芳名等を明記し、この市史と共に永くその御厚志に対する御礼のしるしとしたいと思う。
  昭和五十三年九月一日
                                   昭島市史監修者 水野祐