一 昭島市の誕生

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拝島のダルマ市


昭島市の位置

 われわれの郷土昭島市、それはわが国の首都東京の西辺、多摩の清流に臨む、広大な武蔵野台地の一隅を占め、朝に、夕に富岳の麗姿を仰ぐ、静閑な原野に立地する。行政上で言えば東京都昭島市。古くは東京府北多摩郡に属していた拝島村と昭和町とが合併してできた都市である。首都大東京の西部を構成する衛星都市群(註一)の一つとして、昭和五二(一九七七)年には人口八四二九〇名を算する中都市である。
 しかし近代都市としての郷土昭島の歴史はきわめて新しく、かつ短い。昭島の成立は、全国的な町村合併運動が活発化した気運に乗って、昭和二九(一九五四)年五月一日に、昭和町と拝島村とが合併して、一つの市として成立した時に出発する。昭和町の「昭」と、拝島村の「島」の字をとり、合わせて、それまでになかった新しい地名、「昭島」が地球上にはじめて成立したのであった。したがって昭島市の歴史は、昭和二九年より算えて、今年昭和五三年(一九七八)まで、僅かに二五年を算えるにすぎない。四半世紀の歴史しかもたない昭島市の歴史を叙述することは、その期間が短いので、一見きわめて簡単のように思われよう。けれども歴史的叙述は、つねにその起源への遡源的探究によって、もたらされる結果の真実の原因の究明ということを使命とするのであるから、昭島市史と言っても、それは単に行政上の市制施行時から、現在までの市の発展の推移を述べるだけでは足りない。昭島市を成立させた基本的条件はなにか、なぜ昭島市が誕生しなければならなかったか。昭島市誕生の必然的理由の探究こそが、昭島市史への関心の基底でなければならない。そのためには、昭島市を形成させた二つの基盤である昭和町と拝島村の、その各々のよって立つ歴史的な基盤から説明してこなければならないのである。昭和町が行政上成立したのは、昭和一六(一九四一)年一月であるが、町制施行以前は、昭和三(一九二八)年に、拝島村をのぞく八ヶ村の組合村が合併して、昭和村と改組されたのにはじまり、一方拝島村は、明治中期以来の九ヶ村組合村の組織から、明治三五(一九〇二)年に分離独立して一村として村制を施行したのに、近代の拝島村は誕生をみたわけである。
 このように昭島市は元来江戸時代以来の、郷地・福島・築地・中神・宮沢・大神・上川原・田中・拝島の九ヶ村を基盤として、この九ヶ村の地域を統合して、一つの市として独立したものであるから、その起源をさかのぼれば、遠く江戸時代にさかのぼって、その淵源をたずねなければならないし、更に明治一〇(一八七七)年以後、わが国に根をおろした考古学という新しい学問の研究によって、昭島市の地域にも、新石器時代の繩文文化の遺跡や、遺物が発見されて、きわめて古い時代から昭島市域に、人びとの生活がはじめられていたことは確実に知られているので、昭島市の歴史は、そうした考古学上の事実によって知り得る遠い古の時代にまでさかのぼらなければならないのである。昭島市域の最古の住民は繩文石器時代人であり、彼等の営んだ生活は昭島市の最古の誕生を物語るものであり、そこに端を発する、名も知れない郷土人の遠く遙かなる祖先たちの、数千年にわたる永い生活体験の蓄積こそ、今日の昭島市の繁栄をもたらした原動力であることを認識しなければならない。昭島市史はそこからはじまる。