三 昭島市の構造(一)-市域と人口

8 ~ 15 / 1551ページ
 すでに述べたように、昭島市は、昭和町と、拝島村との合併によって成立した、首都圏(Tokyo Metoropolitan area)の西部に位置する衛星都市の一つであるが、更にその以前においては、この二つの町村は江戸時代から九ヶ村に分かれていた、奥多摩街道沿いの街村的村落であった。
 奥多摩街道とは、甲州街道と、立川市内の日野橋のたもとから別れ、多摩川に沿ってその北岸の段丘上を西へ、昭島市域を貫通して、青梅に達し、更に青梅街道と合して、奥多摩方面に通ずる街道で、この路線はきわめて古い時代から、東京湾と甲信地方の山岳地帯とを結ぶ自然の古道の残存形態を示す、重要な通路であった。この街道沿いに、東から西へ、点々と繩文遺跡が連続的に散在していることは、その明証である。この街道に沿って立川市に隣接して、東から西へ街村的に連らなる九ヶ村こそ、今日の昭島市の母胎であった。九ヶ村の最西端に位置する拝島村の西は、今日の福生市である。
 昭島市は東を立川市、西を福生市に限られ、その北は東から砂川町を合併して延びた立川市の砂川町に包まれ、南は多摩川を隔てて、八王子市と日野市に接している。こうした市域は、面積にして一七・二〇平方粁を占め、東京都全面積に比すると、その〇・八パーセントに過ぎない。東西の延長六・〇六粁、南北四粁で、周囲は一九粁に達する、東西に長いほぼ紡錘形を呈する市域を示している。
 この市域の内に、世帯数で二九二〇八世帯、人口にして八五五三五人(男四三二五五人・女四二二八〇人)の人びとが定住し、生活を営んでいるので、人口密度は四九七二を示す結果になっている(昭和五二年一月一日現在)。この数値は、東京都の全人口一一六六九〇〇〇人の〇・七%を示す。したがって東京都の全面積の〇・八%の地域の内に東京都の全人口の〇・七%の人間が居住していることを示していて、昭島市では尚東京都内の他地域に比して、やや空閑があることを示す。現在昭島市は、東京都内の二六市の中で、第一六位の人口を有する中都市である。そのことは人口密度の上でも同じ結果がみられる。日本全国の一平方キロ当りの人口密度は三〇一人であるが、東京都のそれは五四四二人となっており、それに対して昭島市は四九〇〇人を示し、東京都の平均値よりやや低減している(註三)。
 昭島市においては、転出、転入の社会的関係による人口の増減は、ここ数年間浮動的で、転入者よりも転出者数が多い年もあるが、全体としては人口の自然増がみられ、最近数年の統計によってみても、年間千数百人の自然増を示している。いま大正時代の統計と、昭和時代の五年毎の人口変化の統計を眺めると、上表のような結果をうる(註四)。

 

 大正一四年の世帯数一一一四世帯を、半世紀後の昭和五〇年の二五二四五世帯に比較すると、実に二二・七倍に激増し、人口数でも一二・四倍に膨張したことを示している。更にその世帯数と人口数との増減を示すグラフをみてもわかるように、激増する時期に大体二つの時期がある。一つは戦前の昭和一五年から二〇年の期間であり、いま一つは戦後の昭和三五年から四五年に至る一〇年間の激増期間である。その中間の昭和二〇年代は、やや増加速度が低減していることが示されている。この人口の増加の急激な変動をもたらした原因は、きわめて明白である。はじめの激変期は、それまで江戸時代から引続いて農村として定着してきたところへ、満州事変以後の軍国主義の台頭によって、立川市に設置されていた陸軍飛行聯隊や、その周辺に林立しはじめた飛行機工場をはじめとする軍需工場の急激な発展につれて、昭島市周辺もそうした軍需産業の影響をうけて、他の地方から移り住む人びとが増加したことによるものであり、戦後のそれは昭島市が、首都圏の整備によって、衛星都市として発達し、特にベッド・タウンとしての性格を顕著にしてきたことの端的な現われである。
 戦前までは人口の増加率と世帯数の増加率がほぼ並行しているのに、戦後の昭和二五年を境として、以後は世帯数の増加率の方が人口増加率を上回り、急上昇を示している。これは一世帯当りの人員数が、大正一四年では六・〇九、昭和五年では五・九二、昭和一〇年で五・八五、昭和一五年で五・四五という数値を示し、大体戦前では一世帯当り人員が五~六名であって、この数値は殆ど固定的であるのに対し、戦後になると、昭和二五年の四・三九、昭和三五年の四・四一、昭和四〇年には三・三四、昭和四五年の三・一二、昭和五〇年の二・九二と年々低下していて、世帯構成員数が、戦前のそれに比して半減している。この傾向は年と共に顕著化しているが、こうした現象は昭島市が、ベッド・タウン化するにつれて、世帯構成上の核家族化が進んでいることの証左である。

 
昭島市の世帯数と人口数増減

 昭島市の住民の人口数において、男女の比率をみると、大体において男子の方が女子よりも若干多いのが普通である。しかし昭和二五年以後、昭和三八年までは、逆に女子の人口数が男子のそれを上回るという現象がみられるのは注目される。それは戦後における外国軍隊の進駐、そして米極東空軍物資補給基地としての、横田基地・立川基地を控えた昭島市が、隣接の立川市と共に、基地の町化していた時期を示すデーターである。

昭島市の人口推移統計表


昭島市町別人口推移統計表

 戦後の三〇年は、長い昭島の歴史の上に、最大の変革をもたらした時期であって、激動の連続で綴られる重大な町勢の転換期であった。農村から近代都市化への変貌が、僅々この三〇年の短期間に完遂されたのである。戦中に芽ばえはじめた農村から軍需産業都市化への道は敗戦によって一挙にその機能を停止したが、再びその混乱を克服して、まず首都圏整備による衛星都市としての道を歩みはじめた。一時は基地の町化した時期もあったが、やがて首都圏における通勤者のベッド・タウンとして発展の道を見出したのである。このような急速な発展は、在来のり町勢を著しく変貌させたし、またその急変によって生じたさまざまな矛盾をも含んで、昭島市は徐々に近代都市化の整備に向って動きつつあるのが現況である。