四 昭島市の構造(二)-農村から都市へ

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 江戸時代から奥多摩街道沿いの街村として発達してきた九カ村は、段丘上を東から西へ貫通するこの古い街道の両側に並んだ集落であり、北側の広閑な台地は後背地として、自然と原野と森林の地帯であった。近代になって、首都の発達につれて、後背空閑地が、漸次着目され、町の発展は南から北へと移りながら、畑地や森林が開拓されて、新しい町づくりがはじめられるに至った。戦前から存在した五日市鉄道は、立川から拝島を経て、五日市町に通ずる私鉄であったが、国鉄に合併されて五日市線となった。この路線は、古い集落の中心をぬって拝島に達していたが、戦後この路線は廃止されて、国鉄青梅線に合体し、立川-拝島間は青梅線の路線を走るようになった。この青梅線は古くは五日市線と同様、私鉄であったが、戦時中国鉄に併合されてしまった。青梅線は、現在立川を起点として、中神・昭島・拝島を経て、福生・河辺・青梅に達し、更に御岳・奥多摩(旧氷川)に通ずるが、この路線は青梅鉄道が開設された時以来、立川から平坦な武蔵野台地上を一直線に東西に貫通して、青梅に達していたので、古い街村的村落群の中心部から離れて、その北方を走っていた。そのため青梅線の各駅と、旧村落の中心部とは距離的に離れていて不便さがあったし、今日でも昭島市域を走る青梅線の各駅をみても、線路の南側に駅舎をもつだけの駅が多く、北側にももつ駅の駅舎は、戦後新たに増設されたものばかりである。このことは、青梅線の北側は新開地であり、長い間その地域は空閑地のまま放置されていた地域であることを示している。
 それ故旧村は、いずれも南北に細長い村域をもって東西に並んで構成されていたのである。そしてその各村の北方の空閑地を青梅線が貫通していたので、駅舎は、みな駅の南方段丘上に散在する村落の方に向って開口していた。ところが戦後首都の異常な膨張によって、人口が周縁に分散され衛星都市化が進むにつれて、かつての空閑地に、交通の便がよいため急激に住宅が造成され、一躍畑地や、森林が開かれて宅地となり、新しく市街地が発展をするようになってきた。住宅街や団地の出現は、それらの人びとの生活を支える必要から、商店街を出現させ、一躍駅周辺は繁華街となって、古い村落時代の集落をおきざりにして、新開地の方が市街の中心地をなすに至った。
 こうした変動は、首都圏の衛星都市群では共通してみられる特色であるが、特に昭島市においてはきわめて顕著であり、そのことは市街地の町名の複雑な一事をみても充分推測される。すなわち、昭島市内の町名は、古い九ヶ村時代の村落名が襲用されている場合が多いのであるが、それらとは別に、旧村名とは関係のない新町名をもつ町域が中間に介在している。そうした新町名をもつ町域は、昭島市の中央部を、東から西にかけて帯状にのびている。その町域の幅は、北限を青梅線にとり、南はほぼ東部では奥多摩街道、西部では市道一三号線にそって限られた区域である。この帯状の新町域が設定されたために、南北に細長くのびていた旧村名のまま存続していた町域は、南北両地区に分断され、無接続的に、南と北とに旧町名のまま存続し、恰もかつての飛地のような様相を呈しているという、珍現象がみられるのである。その関係を東から西へ並べて表記すると前表のようになる。

 

 昭島市は地誌的機能の点から、その構造上、三つの地区に大別することができる。それは、地誌的に南部地区・中央地区・北部地区の三つに区分される。