それ故旧村は、いずれも南北に細長い村域をもって東西に並んで構成されていたのである。そしてその各村の北方の空閑地を青梅線が貫通していたので、駅舎は、みな駅の南方段丘上に散在する村落の方に向って開口していた。ところが戦後首都の異常な膨張によって、人口が周縁に分散され衛星都市化が進むにつれて、かつての空閑地に、交通の便がよいため急激に住宅が造成され、一躍畑地や、森林が開かれて宅地となり、新しく市街地が発展をするようになってきた。住宅街や団地の出現は、それらの人びとの生活を支える必要から、商店街を出現させ、一躍駅周辺は繁華街となって、古い村落時代の集落をおきざりにして、新開地の方が市街の中心地をなすに至った。
こうした変動は、首都圏の衛星都市群では共通してみられる特色であるが、特に昭島市においてはきわめて顕著であり、そのことは市街地の町名の複雑な一事をみても充分推測される。すなわち、昭島市内の町名は、古い九ヶ村時代の村落名が襲用されている場合が多いのであるが、それらとは別に、旧村名とは関係のない新町名をもつ町域が中間に介在している。そうした新町名をもつ町域は、昭島市の中央部を、東から西にかけて帯状にのびている。その町域の幅は、北限を青梅線にとり、南はほぼ東部では奥多摩街道、西部では市道一三号線にそって限られた区域である。この帯状の新町域が設定されたために、南北に細長くのびていた旧村名のまま存続していた町域は、南北両地区に分断され、無接続的に、南と北とに旧町名のまま存続し、恰もかつての飛地のような様相を呈しているという、珍現象がみられるのである。その関係を東から西へ並べて表記すると前表のようになる。
昭島市は地誌的機能の点から、その構造上、三つの地区に大別することができる。それは、地誌的に南部地区・中央地区・北部地区の三つに区分される。