一 都市としての昭島市の性格

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 今日一般に町というと繁華な、人口の集中している場所と考えるのが通則となっている。けれども古くは「町」というのは、「田」と「丁」との合字であるように、田地の一区画の意味であった。したがって町には決して人口の集中している賑やかな区域というような意味はなかった。ところが水田地の区画を意味したこの「町」が、都城制が布かれるようになった時に、京の内を東西、南北に貫く街路で碁盤目のように区切られた、京中の一区画を呼ぶのに転用されて、古代都市の町という概念ができあがった。中世以降には街路の両側に立ち並ぶ、店屋・町屋を合わせて、一つの町と呼ぶようになり、今日の人口が密集し、家屋が立並んで繁華な所という通念を生ずるようになって、今日いう町と呼ぶ概念に移行してきたのである。したがって、町と言っても決して繁華でなければ、そう呼ぶに相応しくないというわけではない。現在都心である千代田区宝田町は、皇居前広場に当る町であり、港区赤坂青山三筋町は神宮外苑になっている町で、建造物が一つもない、人口0人の町である。しかし「町」という字義から言えば、人口0人の町があっても一向に不思議ではなく、却って大東京 Tokyo Metoropolitan の中心部に、最も始原的な町が存在しているとみてよい。その例によれば、昭島市内の町の中に緑地ばかりで、住宅のまばらな町があっても一向に差支えはないわけである。特に北部地区の各町域は人口数稀薄であって空閑地が多いことは、古代の町の俤をとどめているといってよく、近代都市化がそれだけ進んでいないことを物語ると共に、この地区の今後の整備によって、昭島市の発展はこの地区の活用如何にかかわっていることを示唆している。このように現在まで、開発が余り進行していない広い地区を保存していたことは、衛星都市の中でも、主として交通機関の高速化が立遅れていたことによるものであろう。将来の昭島市の発展は、一に交通機関の高速化にかかっている。今日昭島市から東京都心への交通機関としては、青梅電鉄を接収した国鉄青梅線と、近年漸く開通した私鉄、西武鉄道の西武新宿線に接続する西武拝島線に依存するほかに方法はないが、住宅都市として昭島市が発展するためには、青梅線や西武拝島線の高速化が最も重要な課題であり、そのためには国鉄中央線の、すくなくとも立川駅までの複々線化の早期実現を要する。現在極度に過密化している中央線ダイヤの中に、青梅線の東京駅への直通電車を、通勤客を充分消化するに足りるだけの本数をくりこむことは、複々線の実現をみない限り不可能であるからである。そして青梅線の昭島市内の四駅が共に北口の開設を実現することも必要となる。
 隣接する立川市が目覚しい急速な発展をとげたのは、単に住宅都市としてではなく、そこが三多摩地域におけるターミナル都市としての性格をもっていたからである。昭島市が住宅都市として発展するにつれて、職場のある都心と、住宅のある昭島市とを直結する交通機関は、全国的な通例にもれず、益々通勤のためのラッシュアワー現象が過烈化するであろうから、その緩和の方策も重要な課題である。立川市の如くターミナル都市としての大発展は、その地誌的位置の上からみて、望み難いまでも、昭島市にも、小ターミナル都市となり得る条件はある。昭島市の西端に位置する拝島町は、小ターミナルの性格をもつ。
 拝島町すなわち旧拝島村は、江戸時代以降、奥多摩街道沿いの宿場町として、隣接九カ村中最も中心的な村落となっていた。更に日光街道が貫通したことで、宿場町としての重要性を増した。拝島町は江戸時代から交通の要地であったわけである。その伝統をうけて近代においても、拝島は交通の要地であった。戦前、私鉄であった五日市鉄道は立川駅を起点にして、五日市に通じていたが、国鉄に接収されてから、国鉄拝島駅から青梅線に分れ、拝島駅を起点とするようになった。そして西武拝島線も拝島駅を起点としている。八王子から高崎に通ずる国鉄八高線は拝島駅において青梅線と交叉している。そうしてみると拝島は東京都西部における小ターミナルであると見られる。ただ五日市線にしても、八高線にしても、また西武拝島線にしても、現在ではなおローカル線にすぎないので、利用者もそう多くはなく、ターミナル駅としても余り重要視されないが、今後これらのローカル線が、衛星都市群の発達につれて利用者が激増すれば、拝島町もターミナル都市としての性格を帯びて発展する可能性がある。