三 住宅都市としての昭島市の構造

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 住宅都市としての昭島市の構造を分析してその特徴をとらえてみよう。そのため、まず中央地区と、その地区の南北の両側面を南部・北部の両地区を一括して一つの地区とみて二分し、この二つの地区における、産業事業所別分類によって、所属する町別の事業種と、その分布状態を数字で表わした前頁の表によってみてみる。

 

 この表で明らかな如く、昭島市域の中央部を東西に細長い、帯状に貫通している中央地区の五町に、各種事業所が集中していることが明瞭に看取できる。この地区を除く他の南・北両地区を形成している古い九町に比して、僅かに四・八%少ない、一六五九ヶ所という数値を示していることは、この地区が、名実共に現在昭島市の、行政・経済・金融・文化・商業等のあらゆる機能の中枢を形成していることを、はっきりと物語るものである。南・北両地区をなす九町は、総じて南部地区に、これらの事業所が集中しているが、事業所数の上で、拝島町が一四町のうち第一位を占め、同じく第四位にある中神町と共に、この地区での中心的な地域であることを示している。江戸時代から隣接九カ村の中で一番発展していた拝島村、そして、近代においても古くから青梅電鉄の停車場のあった中神村などが、やはり伝統的に、現在でも南部地区の中では、中心的な位置を占めていることを示す統計である。
 事業種別にみると、大別して一〇種が算えられる。農業及びそれに関連する農業・園芸などのサービス業を含めて、南部・北部には若干分布しているにすぎず、合わせて一九ヶ所、従業員数も七五名ときわめて少なく、かつてこの九ヶ村が共に農村であった往時のおもかげが完全に失なわれていることを示す。
 林業・漁業水産養殖業・鉱業は全然ない。かつては多摩川による内陸漁業-川漁が盛んであり、江戸時代には幕府の御用鮎産地・出荷地であった拝島村でも、最早漁業関係者はなくなっており、農業の衰微と共に、町相の一変したことを示している。
 最も多い事業種は、飲食店で四四六ヶ所で従業員一二六五人、次いで飲食料品小売業店の四六八店、従業員一五二六人である。卸売・小売業者を合算すると、一六八四店、従業員六八九〇人となっていて、食料関係業種だけで全体の半数以上の五二%を占め、従業員数では四一%を占める。このことは、基地の町時代の残存もあるが、それ以上に住宅都市としての発展の刺戟とみることができる。このことは不動産業(一五七ヶ所)の数値が大きく、従業員数も二五五人、また卸売・小売業でも、家具・建具・什器の小売業が一一四店、従業員二三五人という数値を示していることと共に、住宅都市としての特徴のあらわれである。一般的にみて、昭島市の工業関係の業種、建設業にしても、各種製造業にしても大企業によるものがなく、何れも中小企業的な経営が主体をなしていることも特徴の一つであり、その資本はかつての在地の農業資本が産業資本に転換し、こうした在地資本を基盤とした経営が、伝統的に維持されていて、外地の大資本が移入された形跡は現在まで認め難い状態である。これは一面からみれば昭島市がいまもなお衛星都市として誕生してから、日なお浅く、発展途上にあることを意味する。
 昭島市の場合を、隣接する立川市の場合と比較してみると、市全体としてみて、市域の中央部を貫通する青梅線によって南北に二分されていることは、立川市の場合における中央線による二分と同様であるが、その北部に対し、中央地区を含めた、南部地区の発展が、きわめて顕著であって、北側は全然空閑地のままであるという現象をみる。この状態は立川市の場合と全く逆で、立川市では北部の開発が目覚しく、本村であった南部が発展からとりのこされている。立川市におけるこの著しい発展の南北両地区のアンバランスは、歴史的な条件によって惹起されたものである。昭島市の南北両地区の発展のアンバランスは、現況においては今後においても充分是正される可能性をもっている。そして北部地区の住宅都市としての性格に合致した施策がとられれば、第二の都心化している立川市に最も近接した昭島市は、第二都心としての立川市の培養圏内都市の一つとしての性格を、一層強く維持して、発展していくものと思われる。