四 昭島市の小字名

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 昭島市はこのように、「戦後派路線(アップレルート)」の波に乗って農村から都市へと飛躍した新興都市ではあるが、すべてが往年の農村的姿態を完全に打破してしまったというわけではない。むしろ一面ではなお土着の市民の間には、旧慣を保持している、根強い保守性を示している点も認められる。すでに述べた如く、地名が南北両地区に分断された後も、依然として旧村落名がそのまま襲用されているというような事例にもみられる如く、古い慣習がいまでもよく保たれている場合もある。地名の上でも、市制実施後も、なお旧村時代の小字名が、そのまま活用されている。いまそれら町別の小字名を表記すると次頁の表のようになる。

 

 この表記だけでは、飛地などもあってわかりにくい点もあろうから、これを分布図にして示しておこう。

昭島市小字区分図

 もともと地名は、人びとの生活の必要性に応じてつけられたもので、地点名から地域名へと発展していくのを原則とする。したがって小字名の如きは、それが命名された当時の人びとの生活の実態や、その時代の人びとの思考を端的に表わしている場合が多いので、歴史的な意味が大きいし、それらの小字名が保存されていることは、有意義なことである。今日では不明になっている歴史上の事実を、こうした小字名が復原してくれる場合も多い。
 昭島市の小字名についても、この原則はあてはまる。段丘崖をこの地方では古くから「ハケ」と呼んでいるが、「はけ上」とか「はけ下」という字名によって、段丘の線が想定でき、「台」とか「岡」という字名は、段丘上、台地上の原地であることを意味し、自然の地形を示している。「耕地」や「何々田」という字名は、低地帯の水田地に与えられ、そこが水田地帯であったことを示す。「新畑」とか「古新田」とかの字名は、そこが本村からはなれた原野・森林地が、新たに開墾された墾田であることを示し、「享保新田」という字名によって、そこが享保年間における新田開発によって造成された新田であったことが、証明する文献がなくてもそれだけで充分知ることができる。そして「新」といい、「古」というのも、享保新田の開発を一つの規準として、それ以後のものが新畑、それより古い時代に開墾されていた新田を「古新田」といったということも想定される。「砂川道」であるとか、「野道」というような字名は、古道の位置を示しているし、「上」と「下」という用字は、昭島地方でも、東を「下」、西を「上」というのが慣例であったことを示す。
 地名はたとえその語源が明確でないものが多いとしても、それはかえってその地名の起源がきわめて古い時代に命名されたものであることを物語るものであり、その命名に際しては、当時の人びとの生活と密接なかかわり合いをもって名づけられたものであるから、地名を通して、われわれは遠い祖先の生活のあとをふりかえるよすがとすることができる場合も多い。特に小字名の如きは、命名当時の状況を示す例が多いから、記録の欠如を補なって、記録せられざる歴史を無言のうちに教えてくれるものがあるので、できる限りそれを保存しておくことも後世の人びとのために有意義である。
 全体として、昭島市域内の小字名を通観して言えることは、南部の多摩川沿岸地域に人びとの生活の中心があり、そこには、農業や、信仰や、交通にかかわりの深い小字名が多くみられるように、早くからこの地域が、この地域住民の生活空間として活用されていたことを示すが、北部へ移るにしたがって、その地域が長い歴史を通して、徐々に、南から北へと、人びとの生活が移動していくあとを物語ってくれる。すなわち北部へ移るにつれて、原野・森林にまつわる小字名が多く、新開地として、山林地域の中にぽつぽつと新田が開かれて入りくんできたあとを示す地名が散在していることは、地名を通して、新田開発のため、南の本村から、漸次北の山林地帯へと、人びとの生活空間が展開し、拡大されていった歴史を示していることが看取できる。