アキシマクジラ
人間も地球上に生存する生物の一員である以上、大自然から離脱して生存することを許されない。人間の生活は、それが古い時代にさかのぼるほど、自然条件の支配下におかれ、長い間人間は、自然の威力に屈して、その支配に服従しつつ、自然に順応した生活をいとなむことを余儀なくされてきた。人智が進歩し、その科学の力が発達するに及んで、人間はようやく、彼等の生活をより豊かに、より安全にするため、徐々に自然条件を克服しつつ、可能な限りにおいて自然を改変して、よりよき生活環境を築きだすようになった。しかしそれはきわめて新しい時代のことに属する。自然と人間との相互関係を、この長い人間の生活史を通して眺めると、人間がどのように自然を占拠 occupanceしたかという状態によってとらえることができる。これは人間が自然に対してどれほど適応性 adjastmentality をもっていたかという見方である。しかしまた人間がどのようにして自然を自分の生活に都合よく改変していったかという立場においてとらえることもできる。すなわち人間の自然界改変の行為にたいする自然の適合 adaptation という逆な見方もなりたつ。もちろん人間の自然に対する反応は複雑で、変化もはげしいけれども、こうした両側面の営みの幅湊したところに人間の生活史が構成されるわけである(註一)。人間生活の上に及ぼす自然条件が絶対的なものだというのではないが、ある土地に定住し、その地域の自然条件に適応して、地域的特質を帯びた生活をつづけていることは十分承認されなければならない。そこで人間をとりまく自然環境を注意深く究明していくことも歴史の研究には必要な点である。
昭島市史の叙述に際しても、このことに留意する必要があることは言うまでもない。昭島市は、武蔵野台地上に位置する住宅都市であることはすでに述べた所であるが、この市域の住民達は古い時代から、今日に至るまで、その生活のうちに、さまざまな自然条件の影響をうけながら、ある時はその支配下に順応することを余儀なくされつつ、ある時はそれを克服し、改変しつつ、生活を営んできた。そのあとを辿ることが、昭島市史の任務である。
ジャングルの様な原始林におおわれていた大昔の武蔵野台地、その段丘崖下を流れる多摩の清流をつたって、古東京湾から甲武の山地帯へ、さらには甲信越の山岳地帯へと連らなる一条の細い自然の古道こそ、この地域の最初の開拓者を移住させた通路であった。昭島市の最古の住民はこの自然の通路を歩んだ、最初の開拓者であった。昭島市の歴史が遠く、繩文時代のはじめの頃にまでさかのぼるのも、こうした自然の立地条件に順応した生活のあらわれの一つである。
かつての名物「赤っ風」とは、火山灰の厚い堆積による洪積台地としての武蔵野台地の原始林が長年にわたる、われわれの祖先の営々とつづけられた努力によって開墾され、陸田と化されていった時、台地面に吹きつける春季の卓越風は、つねに陸田化された耕地面の砂土を、蒙々と天空高く吹き上げて、目も開けられない「赤塵萬丈」の年中行事をもたらした。これもこの地域の住民にとっては、長い間さけられない、自然条件のもたらす、いたずらの一齣であった。けれどもこの付近の住民は、この悪条件の中でも、あきらめと、慣れの生活を守り、自然への順応の生活をつづけた。
火山灰の洪積台地の陸田は、その地味と言い、決して良田とは言い難く、また水利に乏しい台地上の農作業にも限度があった。絹織物が衣料品の主たる資源であった頃、この台地上の陸田が桑田化されたこともまた、こうした自然の条件に順応した生産活動であったとみることができる。養蚕業が衰微して桑田が縮少する頃、首都の膨張は、かつての桑田であった台地上の畑地を、無二のベッド・タウン建設地帯として開発し、首都圏の整備に大きな役割を演じさせるところとなった。これは一面では自然条件に合致した順応の姿であるが、他面では自然条件を克服した適合の姿でもある。すなわち陸田地帯を整地し、広大な畑地を宅地に造成し、かつての細い砂利道を拡張整備して、広い舗装した道路を縦横に通じさせ、住宅団地を形成させたため、かつての「赤っ風」公害を激減させて、住みよい住宅都市へと転換させつつあることは、自然環境の改変による適合の例である。
水利に恵まれず、かつては羽村町の「まいまいず井戸」のような特殊な方法による井戸水を、飲料水としなければならなかった武蔵野台地の生活も、今日では科学技術の長足の進歩により、地下水を汲み上げて、これを源水とする上水道が普及して、飲料水の確保ができ、下水道の完成と相俟って、武蔵野台地の生活を著しく文化的なものに改変したこともまた適合の例である。
多摩川上流のダムの建設によってできた人造湖、奥多摩湖は東京都民の飲料水の供給源として重要な役割を演じているが、その反面多摩川の水量は激減し、また特に戦後の高度経済成長の一翼であるコンクリート建設工業の犠牲となって、多摩川の川原は、随所に大きな砂利穴が穿たれて、みる影もなく荒廃に瀕していて、今日の人びとには、多摩川がいかに住民の生活に大きな影響を与えているかという点を、考える余地すらなくなってしまっている。けれども、武蔵野台地の南部の開拓は、まことこの多摩川の流路をさかのぼって移動した人びとの手によって開始されたのであり、昭島市の今日の発展の基盤は、こうした計り知れない遠い昔の、名も知られない幾多の、われわれの遠い祖先である英雄達の手によって営まれたのであった。多摩川は最も重要な、自然の通道として、あるいは川船を操り、筏を組んで流した人びとの手に、東西の交通の便が委ねられていた。特に鮎漁などの川漁による内陸漁業も盛んであったから、昭島市域の住民の生活にとって、この神聖な清流多摩川の水運は、諸々の文化の交流の重要なルートであり、豊かな淡水魚族の生棲は食生活の自給自足を助けて余りあるものであった。昭島市の住民の歴史もまた、多摩川とは切っても切れない深い因縁に結びつけられていることを忘れてはならないのである。ここにも自然に順応した生活の姿勢があった。