一 昭島市の自然地誌的位置

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 東京都昭島市昭和町四丁目七番二一号地に存在する、昭島市の全機能の中枢をなしている昭島市役所の位置の表示は、地球上に占める位置として、東経一三九度二二分、北緯三五度四三分と標示されるが、その地点は、自然地誌学的に表現するならば、日本列島 Japonesia の本州島の東部フォッサマグナの東側に並行して走る、北弯山系に属する関東山脈の、東側から東南に突出した、諸丘陵のうちの、加治丘陵・草花丘陵などの、東に展開する洪積台地である武蔵野台地上に立地するといい現わすことができる。この広大な武蔵野台地のほぼ中央部の南端、多摩川を臨む末端部に立地する昭島市域は、台地が多摩川の北岸に接する断崖に沿って、東西にわたって構成されている、二段、ないし三段の河岸段丘面にのって形成されてきた集落群が、一つの都市として合併されたもので、昭島市構成の基盤となっている。昭島市域をも含めた、この武蔵野台地は、古来「武蔵野」と呼び慣らされてきた、関東平野の南西部を占める、広大な森林・荒野の地域であった。そして多摩川に面した台地の末端に、僅かな水流・湧水を求めて、その周辺に、古くから人びとが集り住み、自ずから小さな村落が形成されてくると共に、この荒野が人びとの生活空間として活用されはじめ、開拓がおしすすめられた。
 このような武蔵野台地の集落は、いずれも共通した台地上の村としての、一つの人文景をつくり出している。そのはじめこうした集落は、台地の西辺を限る加治丘陵や、台地の中央にのっている狭山丘陵などの、山麓地帯とか、台地の末端の浸蝕谷や、多摩川に面した河岸段丘面に発達をした。このことはそうした地域に分布する繩文時代の住居阯の分布によって証明される。これらの集落は、丘陵の山麓や、台地の末端の湧水を利用して成立した自然発生的村落であった。
 武蔵野台地の東部の末端は、古い時代には直接古東京湾に接していたので、そこの集落と、台地の西部のそれとでは、共に台地上の集落としても多少様相を異にする。東京都港区芝公園の丸山貝塚遺跡に示されるように、この付近の集落は貝塚を伴う漁撈民の海浜集落であるが、台地の西部では、多摩川流域の集落でも、もはや貝塚集落はみられず、開析谷の谷頭にある湧水を源とした池や、それから流れ出る湧水路に沿った貝塚などを伴わない住居阯がみられるから、それらは狩猟・耨耕を生業とする人びとの湧泉集落という性格をもつ集落であった。また多摩川に沿った河岸段丘面の古い住居阯は、これもまた湧水帯集落とみるべきである。多摩川の支流である野川に沿って、やはり湧水帯があり、そこに古い自然村落が分布する。武蔵野段丘面と、立川段丘面との境界である、段丘懸崖に沿って泉が湧き出し、それらの泉水を集めて、南東に流れるのが野川である。調布市深大寺はこの段丘崖下の湧水の辺に立地した関東地方最古の白鳳仏を有する古刹であり、三鷹市の大沢・小金井市の貫井・国分寺市の本村・恋ヶ窪など、いずれもこの段丘懸崖線に沿ってできた古い湧水集落である。武蔵国の国分寺も野川の水源の湧水の辺に近く、懸崖のふもとに建立され、その伽藍からは南に立川段丘面の平野を望み得る絶好の場所であった。このように武蔵野台地上の西部の集落は、いずれも自然の湧水・谷頭に発生した自然村落の型を示している。武蔵野台地上の中央部を占める、広い原野が開拓されて、人びとがそこに村落をなして生活を営むのは、どうしても江戸時代における新田開発政策によって、開拓がおしすすめられてから後の景観であるとみなければならない。
 この古い単調な武蔵野台地西部に共通してみられる自然景観の中で、昭島市の母体も形成されてきたのである。この単調な武蔵野台地の村落の一つとして、このような自然景観のもたらす諸条件に順応し、かつその制約を享受しながら、静かに長い歴史を繰返してきたのが、昭島市の母体をなす九ヶ村の、街村的村落であった。武蔵野台地上の集落という自然条件をふまえて形成されてきた昭島市の歴史を知るため、まずその基盤をなす武蔵野台地についての正確な認識をもっておく必要がある。武蔵野台地がいままでもちつづけてきた、この単調な自然景観を、近代科学の力を駆使して、その条件を克服し、武蔵野台地のもつ自然景観を近代人の生活に適合させ、正しく新しい自然の改変を試みていくところに、近代における武蔵野台地の集落としての昭島市の発展が予測される。